「Festival of Tibet 2000」レポート(瀬戸敦朗さん)

瀬戸敦朗さんからのレポート、存分に御堪能ください。なお写真の日付けとレポートの日付けがおかしい場合がありますが、これは微妙な時差によるものです。

Festival of Tibet 2000会場入り口

2000年3月12日から17日までの6日間、インド、ボンベイにおいて、チベット文化全般を紹介する盛大なイベント、”Festival of Tibet 2000″が開かれた。これまでにも亡命チベット人たちの手で、同様の催しがインドの各地で行われてきたが、特に、今回のこのフェスティバルは、インド人によるチベット支援グループ、”Friends of Tibet”と、チベット人の運営委員会 “Tibetan Youth Congress”とが共同で開催したもので、いわば、初めてインド人自身がメッセンジャーとなって、インドに暮らすすべての人に、チベットとは何であるかを問い掛ける、今までにない画期的なイベントとなった。

世界に向けての、インターネットによる半年以上にわたる前宣伝。インド・マスコミの最高水準のクオリティをもってデザインされたポスター・パンフレットの類。インド一流企業(Reliance Industries Ltd & Piramal Enterprises Ltd)のスポンサー獲得、等々は、インド人サイドの功績である。また、チベット人サイドは、そうした対外的な運営の部分を、Friends of Tibet に任せることで、内容の充実に専念できたようだ。チベタン・ユース・コングレスの呼びかけで、チベット音楽、舞踊、工芸、絵画など、各分野のプロフェッショナル、養成スクールのメンバーたち、チベット仏教各セクトの密教儀礼のエキスパートたち、学生ボランティア等がダラムサラや、デラドゥン、フンスゥル等々のインド各地から集まってきた。日替わりの映画上映、チベット舞踊その他のイベントが、連日連夜、朝の10時から夜の10時まで目白押しで、そのプログラム内容は、毎日通いつめても飽きることのない、まさにチベット博覧会そのものだった。

発行部数世界第二位を誇るTimes of Indiaボンベイ局内、Indian Economic Timesの編集スタップ、セトゥ・ダス氏がこのフェスティバルの責任者となっていることから、報道ネットワークを効果的に活用した宣伝手法が見事に当たり、開会初日にはダライラマもやってくるとあって、チベットに興味のなかったボンベイ中のインド人たち、特に知識人層にアピールしたようだった。連日、晴天にめぐまれ、日中は30度を越す日々が続いたが、蒸し暑くもなく過ごしやすく、夕ぐれ過ぎた頃にも、人の足はにぶらなかった。また同月26日にはクリントン米大統領がボンベイを訪れる予定だったこともあり、時の話題として、二人のビックネームがテレビのニュースや街のうわさとして、何度か目に付き、耳にとびこんできた。

終着駅Church Gate Station

開催の2日前の3月10日の早朝二時ごろ現地入りした私は、空港そばのホテルで仮眠をとったあと、床屋などへ行ったり、電車に乗ってみたりしながら、昼過ぎ、フェスティバル運営事務所の置かれたホテルに赴いた。そのホテル、レジェンシィインは、コラバ地区のとっつき、リーガルシネマ映画館の裏手にあった。コラバは、空港から電車で来た場合、終着駅Church Gate Stationから歩いて三十分ほどのところにある海岸沿いのホテル街で、海に向かってそびえたつ巨大なモニュメントインディアンゲート近辺のツーリスト・スポット。

そこで、責任者のセトゥ・ダス氏と、インド人スタッフの、プラシャーン氏、アリフィア氏、チベット人スタッフのロプサン氏などと初対面の挨拶をかわした。その後、ほっとして少し疲れが出たこともあって、様子がつかめるまで、忙しく立ち回る誰にも彼にも話し掛けながら、邪魔にならない程度にみんなの後をついてまわるくらいが私の出来るすべてだった。開催まであと2日を残すばかりの正念場を迎え、メイン会場となるはずの施設がそのときまで工事中のままだったこともあり、予定通り行かない飾り付けのおくれを取り戻すため、誰もがカリカリ来ていた。初日朝まで、インド人スタッフとチベット人スタッフが何やかや口論するのも耳にしたが、後になってみれば、開催2日目にはもう肩を叩き合って喜ぶような、そんな感じだった。

その日、10日の夕方、出席者全員の宿泊先の世話、食事の手配等の調整役をつとめるアリフィア氏から、フェスティバル中の朝昼晩の食事については心配するなと告げられ、その晩はとりあえず、レジェンシィ・インの空いている部屋に泊まれるよう手配してもらえた。

写真左から、Aliefya、Lobsan、Atsuro、Bertie

リーガルシネマ、そしてレジェンシィ・インのあたりから、ほんの1、2分、海に向かって歩いたところにインディアンゲートがある。10日の夕暮れ時、薄暗がりの中、海に面するそのボンベイ南端のインディアンゲート前の広場に、亡命チベット人たち、が集まり、祖国と世界の平和を祈り、めいめい手のひらにろうそくの火を灯し、静かに祈り続ける穏やかな形式で、デモンストレーションが行われた。広場に夕涼みに来ていた人々は何事かと集まり、ひとしきり見物し、理解し、立ち去っていった。

 

10日の夜は、レジェンシィ・イン内の談話室でロプサン氏その他のスタッフたちと遅くまで語り合った。ロプサン氏は、五年ほど前に日本に滞在したことがあり、かなり日本語がしゃべれた。やはり五年ほど前に、私の家にしばらく泊まっていたツェリン氏とは、ダラムサラのTCVスクール時代一緒だったということで、ロプサン氏とツェリン氏とは入れ違いで日本では会えずじまいだったという。同じ夜には、昨年9月に日本で面会したことのあるインド人、バーティ・ドゥサウザ氏とも再会を果たした。彼はフェスティバルの責任者セトゥ・ダス氏の職場、Indian Economic Times編集局での上司にあたる。バーティ氏やセトゥ・ダス氏と知り合わなければ、私がもう一度インドに来ようなどとは思いもしなかっただろう。

そもそも今回私がフェスティバルに出席することになった顛末を話せば、去年の夏、個展を終えた私のもとに、以前から文通していたフランス在住のミセス・シュヴァイツァー(有名なシュヴァイツァー博士の姪にあたる人)から、ボンベイでこんなフェスティバルが計画されているけど、行かないか?自分は行こうかなと思っている。現地で会わないか?といった内容の手紙が届いたことが始まりだった。その後、セトゥ・ダス氏と何回か手紙のやりとりをするうちに、個展用に作った大型のCGマンダラのポスターを寄贈したいと私が申し出、たまたま彼の上司、バーティ氏が日本に来ることになったので、手渡ししたわけである。バーティ氏は日本で会った時からそのユーモアの連発が印象的だったが、ここでも彼のまわりにはいつも笑いがあふれていた。バーティ氏は、翌晩11日は自分の家に泊まるよう誘ってくれ、私はそれに甘えることにした。

YB Chavan Center

明くる11日、チベット人の有志がメイン会場を飾りつけるのを午前中ずっと見物しているだけの私だったが、昼過ぎからはバーティ氏について”Times of India”ビル内の各施設を見学させてもらえることになった。そのビルは外見は古めかしい石造りの建物だったけれど、一歩中へ入ると、最新のコンピュータ設備で埋め尽くされており、外の喧騒とは対照的に科学基地のような壮観さだった。インド人は英語とコンピュータを完全に道具として使いこなしており、我々が日本にいて想像する時間の止まったインドのイメージとは、まるっきり正反対であった。

さらに感心したのは、リラックスした職場の雰囲気である。ときにはインドらしく景気付けに歌声さえ聞こえてくる仕事の進め方は、日本人には真似の出来ないものだ。一見非常にのんきそうに見えながら、その実、夕方から夜の九時をまわるあたりまでの一瞬を争う緊張の中で、着実に結果へと導く一人一人の自信とお互いへの信頼は、私もこんなところで働いてみたいと思わせるものだった。カルカッタ、デリー等インドの各地、全世界から送られてくる配信をネットワークでつながれた複数のコンピュータが共有しながら、見る見るうちに加工し、一つの紙面へとレイアウトしていく様は、圧巻であった。スリルに満ちた数時間であった。

その後、新婚ほやほやのバーティ氏の家にたどりついた頃には午前零時を回っていた。二十も年の若い奥さんの真夜中のインド料理など頂戴しながら、水割りなど飲みながら、日本のことなど語り合い、しばらくして眠りについた。翌朝は、バーティ氏に誘われるままに二人でココナッツ酒を飲みに海岸に出かけた。ココナッツの木のてっぺんに傷をつけておくと、朝方、樹液がしたたり落ちるので、バケツをぶら下げて溜めるのだという。昼過ぎには正装したバーティ夫妻といっしょにダライラマ講演会場 Birla Matushri Hall へと向かった。

Birla Matushri Hall

開催初日の12日夕、Church Gate 駅近くの Birla Matushri Hall にて行われたダライラマの講演は、第二の祖国とも言えるインド国内でのイベントということもあってか、非常にリラックスしたムードで、「チベットは元々インドを師として発展した」とインド人の聴衆に敬意を表した後、とりとめもなく日常的なおしゃべりを楽しんでいるといった感じの内容で、会場にはくつろいだ笑いが聞こえていた。

このフェスティバルは、そのあり方を決める時点から、タイムズオヴインディア・グループの技術力、ネットワークの力を借りて成り立っている部分が大きいようだったが、多少なりともインド人向けの政治的なプロパガンダの目的も果たしているようで、チベタン・ユース・コングレス代表が行った開会・閉会のスピーチは、一般のインド人をターゲットに、かなり熱を帯びた感じのものだったし、彼らの現況がいかに深刻なものであるか、アーティストの立場から見ても、あらためて彼らの希望の行く末に思いをめぐらせないわけにはいかなかった。一週間のフェスティバルの会場となったのは

  • ダライラマ講演会場:Birla Matushri Hall (Church Gate Station 近くの Bombay Hospital 隣)
  • 映画、各種パフォーミング、フェスティバルのメイン会場:YB Chavan centre ( Mantralaya 向かい)
  • チベット写真家五人展、スライドショー会場:Prince of Wales Museum ( Jahingir Art Galleryそば )

の三つである。実際のフェスティバルがどんなものだったかについては彼らのサイトを直接訪ねて、追体験してみていただきたい。彼らのゲストブックへの記帳もお忘れなく。

YB Chavan Centre 正面玄関に飾られたCG版カーラチャクラ・マンダラ(1m70cm四方)

瀬戸が99年8月富山での自作マンダラ展のとき制作し、その後、フレンズオブチベットに寄贈したもの。99年9月にIndian Economic Times 編集部チーフ、バーティ・ドゥサウザ氏が来日したおり、彼の部下であり、今回のフェスティバルの責任者であるセトゥ・ダス氏に手渡してくれるよう私から依頼した。CAD用のDXFファイル形式で製図したあと、Corel Draw, Fractal Expression等のVector系プログラムで色付け、グラデーション処理、輪郭線の太細までを加えたもの。

写真左は、フェスティバルオブチベット全体の責任者、セトゥ・ダス氏。彼は、タイムズオブインディアグループ、インディアンエコノミックタイムズボンベイ局の編集員で、今回のフェスティバルのセンスのよいパンフレット・ポスター・ブロウチ等のデザインは、彼の腕によるものである。

YB Chavan Centre 正面玄関前の広場

“Gu-Chu-Sum”アソシエーションによる、迫害に耐えるチベットのドキュメンタリー写真の陳列。チベット人たちの肉体に生々しく刻まれた傷跡が、見るものの胸をうつ。”Gu-Chu-Sum”とは、チベット語数詞の「九、十、三」で、チベット国内において、大規模な抗議デモの行われた各月、1987年9月、同年10月、1988年3月を意味する。

マンダラ制作中

YB Chavan Centre エントランスフロアでのナムギャル僧による砂マンダラ制作(カーラチャクラ・マンダラからその第三層、意密マンダラ部分のみの制作)13日月曜に制作が開始され、最終日17日の閉会式のクライマックスで壊された。

ウエブページ化されたチベット情報検索のサービスのページが、若い来訪者たちの人気を集めた。同じコンピュータを使って、瀬戸のCGマンダラ・アニメーションのデモを行った。ビデオの音楽を担当してくれたのは小野田三蔵氏である。

YB Chavan Centre ロビーに置かれた数台のコンピュータ

マンダラとコンピュータとの相似性にテーマを置いて、コンピュータ文化の未来は、個々人と全世界とが心の中で結んで行こうとする内面的な努力、信頼によるべきだと言おうとしたおれのマルチメディア作品は、亡命生活を強いられるチベット人たちの現状においては、今回はどうやら行き過ぎだったようだ。とはいえ、チベット放送局 Voice of Tibet の記者であるソナム・タルギェ氏やインド人のデジタルアート・ネットワークの人々などは、相当に高く評価してくれ、実際、このデジタルアート展用に、帰国後すぐ何十メガバイトかの画像を送ってもいる。日本では自分の仕事がひどく宗教がかって受け取られることが多く、ここ数年、バランスのよい提示の仕方に悩んだりもしたし、自分にとってそれは、答えの帰ってこない現代日本に対しての過剰サービスではないか、というジレンマが常につきまとっていたが、ここ、インドでは、宗教性は日常の中にあふれだしたまま、翻せば無いも同然に多種多様で、日本人の私が考えたより、ずっと理知的な物思いの集積としてあった。

亡命チベットの放送局 のソナム・タルギェ氏は、取材から編集、アナウンスまで一人でこなす、マルチ・メディアな才人で、フェスティバル中、彼とは何度となく話す機会があった。お互いになんとなく見覚えがあったので、経歴をたずねると、私がダラムサラへ通い始めた1985年、86年当時、ダラムサラのチベタン図書館に勤務していたということで、その後、米国に留学し、情報処理、データベース構築などを学んできたという。

私たちは今回そこで、コンピュータとマンダラは同じだという共通の見解をたしかめあった。彼は以前より、六道輪廻図をグラフィックインターフェースとして、もっとゲーム性に富んだ、もっと複雑な検索のできるオペレーティングシステムが作れないかと考えていたと言い、チベット人自身の手でそんなコンピュータが一から作れたらなあと夢見ていた。私は私で、五仏マンダラを例として、推考の各段階で、答えの向きの相反する複数の検索の可能性を維持しながら、物思いの深まりにしたがって、そのまま、いくつもの方向性が維持されていく立体構造、そんなものが理想ではなかろうかなどと一席ぶった。とにかく、今のようにただただ時間の流れに沿って膨大にふくらむばかりの情報を直線的、あみだくじ的なツリー分類の中に閉じ込めただけでは、そこに結局、答えがないことを確かめるまで、絶望的に深入りして行くばかりだ。

そんな風に具体性のない会話がとめどなく続き、後は追々、メールででもやりとりしようと握手を交わし、帰国後、さっそく話の続きのメールが届いたりしている。

YB Chavan Centre

YB Chavan Centre メインホールファーストフロアでは、連日、クゥンドゥン、セブンイヤーズインチベット、タンタンの冒険など、各種フィルムの上映が行われた。計画初期の頃のセトゥ・ダス氏のメイルに、チベット関係の一大フィルム・フェスティバルになるという触れ込みがあったが、実際、チベット人発信のチベットのためのフェスティバルであるという名の下に、集められるかぎりのチベット関係の映像が集められた感があり、他では実現しそうもない贅沢な内容であった。

YB Chavan Centre 上映会場の外の待合ロビー

カルナタカ州フンソルのギュメ僧院からやってきた僧侶たちによるバター細工の展示と制作実演。インド人の少女たちに乞われるままに、バター細工の花をこしらえてあげるギュメ僧ケサン氏。この少女はプレゼントされた花を手のひらに乗せて嬉しそうに駆け出して行った。バターの花が本当の花に姿を変えたようだった。

気温の高いインドでは、バターに小麦粉をまぜるなどして溶け出すのを防いでいる。15年来の知り合いであるケサン氏は、砂マンダラの実演のため、来日した経験をもつ。

Prince of Wales Museum

ツーリストたちのたまりであるコラバ地区のとっつき口、ロータリーになっている道路を挟んで、映画館リーガルシネマの向かい側にある。メイン会場のYB Chavan Centreからは徒歩5分くらい、Church Gate駅からは徒歩20分くらいの距離にある。日ごろは日本人団体客も多く訪れる観光コースになっているところ。石造りの重厚な建物の構造はイギリス統治時代をしのばせる。

ボンベイにはこんな風な古い建造物がいっぱいある。

写真家達の記念写真

写真中央はチベット人青年写真家ロプサン氏。彼はチベット人社会の内側から、リラックスした被写体をごく普通の視点で切り取ってこれる貴重なポジションにいる。話題性のあるチベットをテーマに、こんな風に各国のアーティストたちと渡り合える経験の中で、カメラマンとは何かの問いかけを忘れない彼の視線は、これからどこまでも客観性をましていきそうで、今後が楽しみな人だと感じた。

写真左のインド人カメラマン、シルワサ氏は、今回のフェスティバルのブロウチ表紙のダライラマ、自室のベランダで腕組みしてポーズを決めてみせる茶目っ気たっぷりのダライラマの写真を取った人である。彼の出展作品は、ダラムサラの邸内でくつろぐダライラマの日常を撮ったもの。それぞれの写真には詩的な写真家自身のコメントが添えられていて、ダライラマの気さくな感じと瞑想的な瞬間とが静かに連続していた。

シルワサ氏は、ボンベイ中心街から北へいくらか遠ざかったところにある、マヒム・ビーチ沿いの彼の撮影スタジオへと私を二度ほど招待してくれた。遠浅の海を見下ろすビルの最上階にあるだだっぴろい空間。開け放された窓から潮風があがってきて、高い天井にも海の光が跳ね返っているようだった。

十七日夜の閉会式の様子

諸外国からアドバイザースタッフとして特別招待された重要人物たちが壇上で、閉会に当たっての祝辞を述べる。貢献スタッフの面々に、慰労の意味をこめてチベット高僧から、白い布カタと記念品が渡された。この一週間あまりですっかり気心の知れた友人たちが次々と壇上に呼ばれるをうれしく思い、笑い、冷やかしながら拍手で見送っていた私だった。が、やがて突然、自分の名前らしきものが呼ばれるのを聞いたように思い、とまどったままでいると、客席隣のバーティ夫人が微笑みながら、「さあ、あなたが呼ばれているのよ。」と腰を浮かして道を譲り、理解した私は急にうれしくなり、壇上へ向かう友人たちの後へ続いた。ミスターバーティが閉会式には出るようにと半ば無理やりに私を会場に連れ込んだことを思うにつけ、こんなドッキリが用意してあったのかと、じんときて、誰彼かまわずサンキューを投げつける私であった。

カーラチャクラ・マンダラ破壇のセレモニー

フェスティバルの終わった翌朝、その日のうちに帰らなければならない私は、開催中スタッフの拠点として貸し切り状態だったホテル、レジェンシィ・インにお別れの挨拶をしに出かけて行った。セトゥ・ダスもアリフィアもこの後数日は後始末で忙しいようだ。アリフィアは、スタッフ全員のスケジュール調整を一人でこなした上に、現場での要人の接待、全体の運営まで皆に頼りにされ、体は小さいが、一目置かれていた。相当な馬力と頭脳の持ち主である。

「すばらしい仕事ぶりを見せてもらった。あなたならどこへ行ってもやっていけるだろうし、みんながそれを知っている。さしあたって、次のプランは?」おれがそう尋ねると、「ダラムサラに呼ばれているのよ。」と彼女は答えた。最後の「のよ。」はおれの感情移入である。セトゥ・ダスは、「全責任者としての立場から、おまえ一人をもてなしてばかりもいられなかったが、本当はボンベイの美しい場所を何箇所か案内してあげたかった。今度はいつ来る?」と名残惜しそうに私に笑いかけ、「バーティが変わりに十分すぎるくらいもてなしてくれた。あんたのかわりにしてくれたんだと思っている。この夏にはまたぜひ来たい。」と、私は答えた。

タイムズオブインディア

別れ際にセトゥ・ダスがもう一度大きな声で言った。「今朝のタイムズオブインディアを見たかい?おまえのくれたあのでっかいマンダラが、ダライラマの映画に出たあの小僧さんといっしょに載っているぞ。あれを見れば、少しは喜んでもらえると思う。」その後、私は、地べたに並べて売られているタイムズオブインディアを買った。2ルピー50パイサだったと思う。私の描いたマンダラがカラーででっかく載っていた。クゥンドゥンのお小僧さんも照れくさそうで可愛かった。

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