2016年度日本チベット学会報告

日本チベット学会 第64回大会が11月19日(土)から11月20日(日)にかけて身延山大学で開催されました。

今年は残念ながら私の日程の都合で(自分の大学の修士論文中間発表会が同日にあり、しかも私自身もそこで研究発表をする必要があったので)1日目のプログラム(ワークショップ「チベット学研究のホット・スポット」)には参加が出来ませんでした。

2日目は朝9時から出席。毎度言い訳してますが、学問の進展に取り残された感のある老いた脳にはすべてのポイントが分かる訳でもないのですが、研究発表を全て聞いて勉強してきました。

会場になった身延山大学本館2階210教室という部屋は、緩やかな階段教室になっていてじつに快適な部屋でした。望月海慧先生初めご準備をされた身延山大学の皆様ありがとう御座いました。

ガザン「チベット・アムド地方における「ツォワ」の現状と考察」

最初の発表は金沢大学人間社会環境研究科博士後期課程のガザンさんによる「チベット・アムド地方における「ツォワ」の現状と考察」と題する発表でした。調査地は青海省海南チベット自治州貴徳県の或る地方村です。

発表風景

「ツォワ」とは所謂クランに似た存在で、「家」や「親族」を中心に緩やかな集団を形成し、相互に葬儀や結婚式や祝祭に際して支援する社会集団です。その「ツォワ」の中でどのような共同作業や行事がおこなわれているかという調査報告です。

村で行なう様々な儀式の中で、山神に関する儀式はいち早く復活したのに仏教やボン教の宗教儀式の復活がごく最近になってなのは政治的な理由かどうか、という質問が出たのですが、発表者自身はそんな風には考えないとのことでした。

発表とは直接関係ないのだけれど、いつ見ても若くてお美しい司会の石濱先生の横でタイムキーパーを務めているのが法衣を纏った僧侶というのが如何にも身延山大学でのチベット学会という感じで良かった。

手塚利彰「近世チベット法律冊子(khrims yig)の先後関係および運用について」

2番目の発表は佛教大学総合研究所研究員の手塚利彰さんによる「近世チベット法律冊子(khrims yig)の先後関係および運用について」という発表でした。

khrims yig と称される一連の法典冊子が存在するのですが、内容を吟味してみると様々な時代の法文がごちゃ混ぜに編集されていて、流布していたと思われる同時期に内容の異なる法典冊子が複数存在している事実から推測すると、規範としての意味があったとは考えられないみたいです。

手塚さんの発表は残存する冊子類の引用や削除の痕跡から先後関係を推定したものですが、結局何の目的で使用されていたのか分からないとのこと。

私が思うには、何かを決断せねばならない立場の人間が使う例文集のような使われ方ではないでしょうか?

えらいお坊さんがお説教の時に使う「お説教アンチョコ辞典」みたいなポケット本を昔インドのチベット人地区で見つけましたが、政治家たちにも結構そんな需要があったのでは?

石川巌「十二教母(bsTan ma bcu gnyis)の起源とその変遷」

3番目の発表は中村元東方研究所専任研究員の石川巌さんによる「十二教母(bsTan ma bcu gnyis)の起源とその変遷」という発表でした。

ペリオの敦煌チベット語文献 P.t.307にある7柱の護法女尊と後代のチベットで広く信仰される十二教母(bsTan ma bcu gnyis)を比べて先行研究者のこれらに関する研究や意見を検証しようという発表です。

結論はやはり、インドの7女神サプタマートリカーが土着の土地神と習合したものと言うよりは、サプタマートリカーに合わせて七女神をチベット土着の神から選び取ってグルーピングしたと考える方がよいのではないかということでした。

石川さんが言いたいのは、史料の成立年代だけが問題なのではなく、そこに含まれている古性の分析が必要で、この方法でチベットにおける口頭伝承的性格を持つ文献記述の変遷の研究が可能ではないか、という意見でした。

ラモ・ジョマ「ツォンカパ中観思想における戯論の位置づけ」

4番目の発表は大谷大学大学院博士課程のラモ・ジョマさんによる「ツォンカパ中観思想における戯論の位置づけ」という発表でした。

ツォンカパ著の『中論註・正理の大海』の文章を精査してprapanca/spros paという用語が言葉や概念上の戯論として使われているのか(ジョマさんはこちらを「現れの戯論」と表現します)、あるいは諸法に自性があると捉える執着(こちらは「真実執着の戯論」と表現)を意味してつかわれているのかをジョマさんは調べられました。

この第二の観点はすでに松本史朗先生が指摘されていますが、松本先生はあたかも「真実執着の戯論」のみをツォンカパがいう戯論だと考えるのに対して、ジョマさんは「現れの戯論」は「言説有」であってツォンカパの二諦説ではあくまで「存在しているもの」だし、正理によって否定されるものではない。つまり両方の意味でツォンカパは「戯論」ということばを使っているし、用例的にもそれは証されると言うのです。納得出来ます。

崔境眞「チャパ・チューキセンゲの刹那滅論証理解:Pramanaviniscayaに対する註釈を中心に」

5番目の発表は国際仏教学大学院大学研究員の崔境眞さんによる「チャパ・チューキセンゲの刹那滅論証理解:Pramanaviniscayaに対する註釈を中心に」という発表でした。

ダルマキールティの刹那滅論証では2つの論証方法があります。

ひとつは nirapeksatva チベット語では ltos med kyi gtan tshigs(不依存の論証因)で、もうひとつは sattvanumana(存在性に基づく推論)です。この発表は、チャパが Pramanaviniscayaの註釈『般若の光 shes rab ‘od zer』の中でどのような構造で解説しているかを見て、前述の2つの論証方法の使い分けかたを確認するものでした。

その過程の中で明らかになってくるのは、ゴクやチャパにとってyod pa(存在)とbyas pa(作られたもの)は(無常性という観点から言えば)後時代のゲルク派論理学に於けるほど明確に区別されていないという事実です。この発表でも分かるようにゲルク派の僧院内で語られるようなチャパのスーパーマン的独創性は事実とは異なるようです。

チベット仏教思想史の中に位置づけられるすばらしく優秀な多くの学僧の中の一人というのが事実なのでしょう。別の言い方をすればかなりオーソドックスな学僧だったんだと思います。

発表者が準備し配られたレジュメは精緻なものですが、素晴らしかったのはその専門用語に満ちた論文を棒読みするのではなく(つまり認識論や論理学の専攻者だけを相手にするのではなく)、少々離れた分野の研究者にも理解可能なように要約しながら発表する態度でした。

石田尚敬「ゴク・ロデンシェーラップ著『五巻本の解説』(Bam po lnga pa’i bshad pa)の構成」

6番目の発表は愛知学院大学講師の石田尚敬さんによる「ゴク・ロデンシェーラップ著『五巻本の解説』(Bam po lnga pa’i bshad pa)の構成」という発表でした。

『カダム派全集』に収録されるゴクによる『正理一滴論』への注釈書なのですが、高野山大学の加納先生が2008年に、ゴクの伝記に記述のある「Rigs thigs ‘grel pa dang bcas pa’i bsdus don」と比定されました。

この題名は今までの知識から言うとちょっと不思議で、「’grel pa」なのか「bsdus don」なのかそれとも両方なのか。そこに端を発して「bsdus don」という註釈形式が「sa bcad(科段)」とどういう関係にあるのかという話題にポイントを置いた発表でした。面白かった。

「科段」という発想がチベットの仏教学の伝統に与えた影響は大きく、学僧たちの体系を根底から支えているもののひとつだけに重要な指摘だったと思います。


今回は、前日に行なわれたワークショップで海老原さんや星先生がお話しになられたので言語学の研究発表はありませんでした。

全部の発表が終わった後、次年度の大会開催校となる佛教大学の委員から歓迎の挨拶(11月25日になる予定)があってのち、再会を期待しながら発表会が終了しました。

研究発表会が終わってから久遠寺本殿の方に皆でお参りしました。

発表が終わってから久遠寺本殿の方に皆でお参りしました。

お参りのあとの記念撮影

お寺は大規模でそして参拝者がいっぱいで、観光寺院ではなく活きてる本山という感じがしました。門前町へと下って行く石段(200段くらい?)なめてました。

未だに膝が笑っています。

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