「国際チベット学会 2000」報告

IATS(国際チベット学会)もスイスで第1回目の集会(1977年)を開催してからすでに20年以上が経ち、同じチベット学のチョーマドケラスシンポジウムと合流してからでも5回目、都合8回の研究集会が今までに開催された。

WSD Complex

ハーンは、自宅が阪神淡路大震災でぶっ壊れた年に開催された1995年の Graz(オーストリア)大会は急遽キャンセルしたが、チョーマドケラスシンポジウムと合わせると5回発表している。

今回の研究集会はオランダのライデン大学の関連施設WSD Complex で開催された。

チベット人達

5つの会場を同時に使って様々なテーマ(文学/歴史/仏教/論理学/美術/言語学/薬学/ラダック関係/大蔵経関連/等)のもとで研究発表が行われた。

ラサからの参加者も会を追うごとに多くなってきたが、今回からはチベット語の通訳が発表会場についたこともあって、過去最大の人数がチベット本土から参加してきた。

サムテンカルメイ氏

第1日目午前の開会式は281名収容されるWSD Complex 最大の 011号室を満杯にして行われた。

今回の幹事役を務めた Hen Blezer氏の司会の下でホスト団体としてのライデン大学国際アジア学研究所長やライデン大学長などの歓迎の辞のあと、会長のサムテンカルメイ氏(写真)が開会の挨拶をした。当学会の歴史を振り返りながら様々なテーマと関心を持った、政治体制を異にする27の国からの参加者が一堂に会する意義を英語とチベット語で述べて盛んな拍手を得た。

第1日目の発表で注目された部会は Robert Barnett博士の呼び掛けで集まった現代チベット人社会(亡命チベット人社会を含む)でのアイデンティティーに関する問題を扱うパネルであった。

中でも論理学哲学の専門家である George Dreyfus博士が前々回大会に引き続き「宗教に基づくナショナリズムの形成」という重要な問題を取り上げ注目された。1950年前後から今日まで引き継がれているチベット独特のナショナリズムとその基本となっている宗教的統一感とでも言うべき要素について踏み込んだ議論を展開し、多くの質問を受けた。

しかし会場に居合わせた中国からの参加者にはそのポイントが呑み込めないらしく、政治的な議論に発展しなかったのは、幸と考えるべきか不幸と考えるべきか?いずれにせよ人権以外のアプローチが登場する必要性を感じた。

David Jackson博士

一般総合部会の発表会場ではこの学会のアカデミズムの牽引力とも言えるハンブルグ大学の David Jackson博士(写真)が全く新しい分野であるチベット地区の大地震の文献的記録の収集への協力を様々な文献研究をしている会員への呼び掛けとして提唱した。

会場からはパドマサンババのサムエ僧院で見せた奇跡を地震の予知と結び付ける意見も紹介され和んだが、様々な文献記録特に厖大な高僧伝の中には大地震の記録は日付けとともに記録されるはずなので、今回の呼び掛けに対する呼び掛けに対する反応には大きく期待がもてる。

まさしく「チベット学の今日的意義」というべき発表であった。

Helmut Eimer博士

今回の数々の発表の中でも仏教研究という観点から注目されたのは、オーストリアやイタリアの研究者たちがここ数年の間、度重なる調査と研究で脚光を浴びつつあるカシミール地区のタボ寺やスピティ寺所蔵の写本大蔵経の研究報告であった。

大蔵経研究の先頭を歩んできた Helmut Eimer氏(写真)の近年の研究が、ネパール地方のムスタンのカンギュルに関するものに移ってきたのも、文献研究がもはや現地調査を抜きにしては成立しないことを語っているのであろう。

これは26日平行して行われた2つの重要なパネル、Sino-Tib. Languageの言語学研究をリードする研究者や大蔵経の歴史に関する Eimer氏のパネルでの発表者のほとんどがチベット語を話し現地調査を頻繁に行う研究者たちで占められていることを見ればわかる。

ただしこれらの発表に鋭い質問を浴びせつつもあたたかい眼差しで眺めるハンガリーのロナタシュ氏やオーストリアのシュタインケルナー教授、そして前述のアイマー博士等先学の厳密なアカデミズムの蓄積の結果であることを忘れてはならない。

Dietz博士

上述したように大蔵経の歴史(つまりチベットの場合これは翻訳された写本の伝承の歴史という意味だが)を研究する上でタボ寺の写本が重要な位置を占めることは、近年多くの研究者がその仕事に従事して成果を挙げつつあるが、今回のパネルの観点はさらにアメリカのニュージャージーにある Newark Museum 所蔵の23巻の写本群の研究が進み、それらが15あるいは16世紀にカム地方のパタンで編纂されたパタンカンギュルの一部であることが判明してきた。

この研究は主として Peter Skilling博士によって進められているが、複数の研究者がその中の特に経部の数巻について内容を検討し、アイマー博士の呼び掛けで今回発表した。

ハンブルグ大学の Zimmermann博士は『如来蔵経』の訳語を分析し、それらが『翻訳名義集』で規定される「欽定訳」ではなく、直訳に近い全く別の単語によって訳されていること、固有名詞については音訳の部分が多く目立つこと、等の特徴を指摘し、他の写本大蔵経との比較を試みた。ゲッチンゲン大学の Dietz博士(写真)は『世間施設』をとりあげた。

古来この文献が経部とすべきか論部に属すべきかはチベット大蔵経編集者の間で歴史的議論があったが、このパタンカンギュルのものは、ロンドン写本大蔵経所蔵のものと同じようにカンギュルつまり「経」と看做されており、用語の面から見てもロンドン写本や河口本、そしてトクパレス写本大蔵経のものと近いと結論している。

色材の配合についての報告を行ったハーンが所属した美術の部会では、ラサ大学芸術系教授のテンパラプテン氏が美術様式の変遷についての発表を行ない注目された。ネパール様式やチウガンパの様式の特徴についての氏独自の分析と見解に興味を覚えたのはハーンだけではないだろう。

宗教舞踏仮面の製作指導風景/タルペン氏

今回の学会ではモンゴル人による宗教舞踏仮面の製作の指導等、多くのワークショップも試みられ、好奇心旺盛なチベット学者を喜ばせた。

ハーンはタンカのワークショップに参加したが、指導役はカルマガルディ画派の継承者として有名なあのゲガラマの長男であるタルペン氏であった。ライデンに在住して活動を続けている。

アルタイハンガイ/歌姫ナムギェルラモコンサート

また、喉歌(トゥバのホーメイ)のワークショップではシュタインケルナー博士も参加していて普段は物静かな研究者達がダミ声を張り上げながら喉歌を練習している姿が滑稽でもあった。

音楽と言えば、アムステルダム在住のモンゴルホーミーバンド「アルタイハンガイ」のミニコンサートと、チベット系民族バンド「カンチェンバ」(映画「セブンイヤーズインチベット」の中でも歌っている)のメンバーの一人ナムギェルラモのコンサートがあり、ラサからの参加者も含めチベット人研究者たちの喝采を浴びていた。さすがはチベット人同士、ほとんどの歌を演奏者に合わせて口ずさむことが出来るのが羨ましかった。

食事中

3日目の夕刻には中国チベットと特に強い繋がりのある人物(中国側の表現によれば古き友人と新しい友人、ほとんどの亡命チベット人学者も招待を受けていた)が数年前まで西蔵自治区の社会科学院長であったプンツォクツェリン氏の名で招待を受けライデン市内の中華料理店「財神飯店」に集合し大宴会が開催された。

ハーンもラサを訪れるたびにプンツォク氏のお宅に顔を出している仲なので招待を受け御馳走を頂戴した。

IATSの事務局の中心人物たちを交え(写真:会長のサムテンカルメイ氏をはさんで向かって右にシュタインケルナー博士、左にプンツォクツェリン氏)、内外のチベット人学者やハーンのようにチベット語を話す妙な外国人学者が微妙に異なった表現のチベット語で語り合う姿は他の学会では容易に見る事は出来ない。

ジャクソン教授の作業風景

29日の午後ハンブルグ大学のジャクソン教授に誘われて、ライデンにある民族学博物館を訪問し、学芸員のコベヤンソン氏にお会いした。

この博物館にはチベットの文物も多く所蔵されるが今回は特別に、ゴルチェンの連作タンカ(軸装仏画)30部のセットの21番目の作品に書かれているインスクリプションを調査することを許された。ジャクソン教授によればこの連作の別の一枚は日本にも存在するという。第一人者であるジャクソン教授の作業に同席し実りの多い時間を持つ事が出来た。

ジャネットギャムツォ女史

最終日の前日29日の夜に行われた総会では物故者の追悼(今回の総会ではフランスのスタン教授とイギリスのマイケルアリス博士(スーチー女史の夫としても有名だった)の後、会長の改選が行われた。新たにアメリカのジャネットギャムツォ女史(写真)がIATS 国際チベット学会会長に選ばれた。

また、次回の開催地に名乗りをあげた多くの候補地(フランス・ドイツ・インド等)の中からイタリアのベニスが適当と看做され決定された。

最終日30日の発表の中で特に注目されたのは A. Alexander氏によるラサの市街地の近年の変遷についての研究である。

氏はリンコル(外周巡礼路)という重要な宗教的意味を持つ道路が都市計画によって消滅していく過程を鮮明な航空写真を使いながら説明した。また、ポタラ宮前に拡がるショル地区の住民の強制移住等の問題が会場からも提出され質議応答された。

チベット人学者達

概ね学術大会は成功したと言える。新たな展望や研究プロジェクトの数々が検討され現地調査の話題や内外のチベット人学者同士の交流(写真)も実をあげたと言える。次回の学術大会は2003年であるが、北京では来年大きな国際会議が開催される計画があり、今年開かれるラサでの伝統医学の国際学会とともにチベット人研究者は大忙しと見受けられた。

タイトルとURLをコピーしました