インドの中のチベットへ 第三話「ダライラマの法話」

今回は山本幸子さんからのお便りをご紹介致します。全5話でございます。


それは全くの噂だった。しかし私たちはそれに飛びついた。本当なら、ぜひ聞かねば。それで、マクロードガンジの小路を歩きまわって、ダライラマの事務所を探した。そこでたずねると、ダライラマに会いたい者は申し込みをするのだという。

私たちは早速申し込んだ。事務所の話では、ダライラマは忙しいから、面会はいつになるかわからないそうだ。どうも話がおかしい。また別の人から聞いた話では、申し込みなんかいらない、当日行けばいい、というのだった。そんなこと、信じていいのだろうか?

いろんなひとからいろんな情報がはいった。台湾からの団体が来ているらしい。たくさんの寄付をして、ダライラマにも拝謁したらしい。その人たちに聞かせるための法話なのだそうだ。それを一般人も拝聴する、ということらしかった。

私とリムさんがデリーのホテルで会った台湾人の僧侶たちは、その関係者だったらしい。

法話はもちろんチベット語でおこなわれる。それに英語の同時通訳がつく。ラジオのFM放送で、それが聞けるらしかった。さらに今回は、中国語の通訳が特別につくらしい。

それだけのことが、前日の夕方までにわかった。どこかに掲示が出る、というようなことは全くなかった。それらはみんな、口伝えで伝えられたのである。

図書館での講座は、全部休講になった。先生たちが、みんな法話を聞きにゆくからだそうだ。

一日目、私とリムさんはまだ半信半疑のまま、とにかく出発した。山道を約一時間歩いてのぼり、ダライラマの邸宅前の広場に着く。昨日まで自由に出入りできた入口で、今日はインド人兵士に持ち物をチェックされる。

私はカメラを持っていた。これがまずいらしかった。

「撮ってはいけない」

と厳しく言われる。

「はい」

と言ってかしこまっていると、

「明日からは持ってこないように」

と言って、通してくれた。よかったー!

ダライラマの邸宅は広場の奥にあり、厳重に閉ざされていた。法話は広場のこちら側にある寺院でおこなわれるらしい。寺院の周囲や広場には青いシートの天幕が張られて、床にはマットが敷かれていた。

余裕をもって来たつもりだったが、既にかなりの人がすわりこんでいた。私たちはあたりを歩きまわってから、本堂に向かって右側の廊下に場所を見つけてすわった。チベット僧の姿をした白人女性が数人、まとまってすわっていた。

私とリムさんは持参のシュラフをマットの上に置いて、その上に腰掛けた。何しろ長時間だ。居心地のよいように、できるだけの工夫をしたのである。

まわりには白人が多い。その人たちが、たがいにラジオを調整しあっている。私もラジオを出して、教えられた目盛りに合わす。しかし、これで同時通訳の英語放送が聞けるんだろうか?半信半疑だ。

まわりの人々がいっせいにざわめいた。立ちあがって、右前方に顔を向けている。私もつられて立った。インド人兵士が数人、銃を片手に、もう一方の手で、

「すわれ」

という仕草をした。私はすわった。というより、跪いた。右前方を、黄色い法衣を着た数人の人が歩いてくる。その中の一人がダライラマだ!私は合掌した。

はじめて見る本物のダライラマだ。数々の写真で見慣れた顔が、太陽のような笑顔で、祝福を与える仕草をしながら歩いてくる。立ち止まって、老女に何やら話しかけている。短い道のりだ。間もなくその姿は寺院の建物の中に消えた。

私は今度は、本堂の方に顔を向けた。壁にさえぎられて見えないが、法座のあるはずの方角だ。

本堂内の席は、台湾から来た人々が占めている。壁にあいた窓から見ていると、その人たちがいっせいに立ちあがった。そして五体倒地の礼をしはじめた。ダライラマが法座に就いたのだろう。私もまわりの人たちといっしょに、五体倒地礼をした。

マイクを通した声が響いた。はじめて聞くダライラマの声だ。快活で重厚。苦難の半生を経てきたはずなのに、そんな印象はかけらもない。冗談を言っているのだろうか。ほがらかな笑い声をあげている。明るい性格の人なのだと思う。

時々わかる単語があるが、全体としてはサッパリわからない。私はラジオのイアホンを耳にあてた。英語が聞こえる。しかし、こっちも時々わかる単語があるだけだ。

話の区切りらしいところで、ダライラマは話を休む。同時通訳の英語放送も止まる。そして、マイク越しに中国語が響く。リムさんがフムフムとうなづく。私はリムさんがうらやましくなった。

九時からはじまった法話は十二時までつづいた。また五体倒地してから、合掌してダライラマを送る。ダライラマが道のりの中程にさしかかった時、ちょっとした騒ぎが起こった。

私よりずっと後方、広場のあたりにはチベット人たちがすわっていた。そのあたりから、ダライラマさして、まっしぐらにやってくる若い男がいる。彼はインド人兵士が銃で制するのを無視して、ダライラマの近くまで来た。そして跪くと、何やら訴えはじめた。泣いているようだ。

ダライラマは体をかしげて、うなづきながら彼の話を聞いている。しばらくして、ダライラマは彼に祝福を与えた。そしてまた、みんなに祝福を与える仕草をしながら、邸宅の方へ歩み去った。

事情はあとでわかった。彼はチベット自治区から亡命してきたばかりの人らしかった。彼はダライラマに、チベットでの苦しみを訴えていたのだ。

彼は家族を残してきたはずだ。チベット人は日本人そっくりの顔をしているが、肉親への情ははるかに篤い。その家族を残して亡命するには、よほどの事情があったのだろう。

ダラムサラには毎日のように、チベットから彼のような人が亡命してくる。そういう人を受け入れる専門の施設があり、いろいろな教育をして、インドで生きていくための援助をしている。

たった今目にした場面に興奮しながら、私とリムさんは昼食の支度にかかった。二人とも粗食だ。寺の厨房でふるまわれるチベット茶をもらってきて、それを飲みながら持参のチベットパンを食べるだけだ。

白人のチベット尼僧たちはごちそうを食べている。車座になって、サラダやチーズを分けあっている。振り返ると、チベット人の僧侶の一団がいる。彼らには食事が与えられている。チベットパンと、具いっぱいのスープだ。スープはおいしそうで、私はうらやましかった。

昼食後はあたりを散歩したり、歯をみがいたりしてすごす。午後も長丁場だ。体をほぐしておかないと。

午後一時、ダライラマの入場を朝と同じように敬虔に迎え、法話を聞く。朝と同じだ。チンプンカンプンだ。わからない話を聞いているのは、疲れる。でもダライラマと同じ場に居合わすという得難い体験をしているのだからと、我慢する。

午後四時、ダライラマの退場を敬虔に見送って、私とリムさんは帰途についた。山道を下る一時間が、体をほぐしてくれるようだった。

図書館の近くまでもどって、なじみになった食堂で夕食をとる。この店のオーナーはリムさんと中国語で流ちょうに話す。リムさんの話によると、四年前にチベットから亡命してきた人で、むこうでは先生をしていたそうだ。ここでも食堂のほかに、亡命してきたチベット人を教育する学校の校長をしている。

この人たちのために、私にできることがないかと思う。私はチベット仏教文化を研究している一学徒にすぎないが、対象がチベットである以上、研究しているだけではすまないと思う。私はアムネスティ・インターナショナルの会員で、そこを通じてもチベット人たちの苦難は聞き知っている。ささやかな援助もしている。そのほかに、何ができるだろうか?

こうして私たちはさらに四日間、毎日通って法話を聞いた。リムさんは中国語の通訳を聞くことができたから、ラッキーだった。でも私はあいかわらず、九十九パーセントわからないままに、ありがたい空気を呼吸しに通った。

ダライラマはエネルギッシュな人だと思う。五日間の法話を、彼は全然手抜きせずにやりとおした。

僧侶の一団は一日目から目立っていたが、その数は日を追ってふえるようだった。大きな荷物を持った、旅姿と思われる僧侶もいた。インド全土から来ているのだそうだ。

ダライラマは世界中を飛び回っていて、多忙な日程をこなしている。だからお膝元のダラムサラでも、人々はめったにダライラマの法話を聞くことができないのだ。

五日目は法話の最終日だ。この日は法話の前の勤行がえらく長い。ダライラマの朗唱に一句一句ついて誦すのである。隣にすわった白人の尼僧が指導してくれる。私は一生懸命それをなぞる。しまいには、両手の指を不思議な形に組んで、何度か礼拝した。それからまた、いつものように法話がはじまった。

あとで花井さんに聞いたところによると、私たちはあの時、ダライラマから菩薩戒を授けられたのだそうだ!

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