三好孝さんによるラサ旅行記です。楽しんでください。
4月26日(土)、朝食を8時半に済ませ、45分に憧憬のポタラ宮に向けて出発する。9時にはポタン・カルポ(白宮)の9階部分から入場する。前回もここから入ったが、今回は車が4〜5台停められるように駐車場が出来ている。
Wさんの持つ高度計が、高度3,625メートル、653ヘクトパスカルと計測している。黄さんと久我さんが入場するにあたり、K夫人とSさんに身体の調子を尋ねたが、K夫人はK氏の世話をするため頭痛を我慢してでも付いて行くと言う。そのK氏は頑固一徹の亭主関白の見本のような人であるが、いかんせん身体の方が付いてこず、ホテルの土産物屋で急ぎ買ったステッキをついての見学である。今度はEさんの調子を尋ねると、Eさんは昨晩の食事さえ取っていないのでと、潔くリタイヤする。Sさんも同調し勇気をもって引き返す。
今度はB・T氏にも体調を聞く。B・T氏が片方の足をひきずって歩いていることを久我さんは見逃さなかった。足は空港のタラップの降りしなに、軽い捻挫をしたとかで、B・T氏本人が「大丈夫、折角のチャンスです。ラサには再び来ることが出来ないかもしれないので、是非一緒に見学させてください」との強い発言なので「4時間近く歩くことになりますが、よろしいでしょうか?」と再度尋ねたのち、我々一行はポタラ宮の門を潜った。

ポタン・カルポはダライ・ラマの住居であると同時に政治を執り行なう場所で、七世紀のポタラ宮の様子や、悲劇(?)の花嫁・文成公主の嫁入りなどを描いた壁画などを見て廻り、急な階段を登ると「西日光殿」のある屋上に出る。
急に直射日光を浴びるので、軽い眩暈を憶えたりするが、マルポリ(チベット語で紅い山)に吹く風は心地良い。そこで大きく深呼吸をして息を整えたり、記念撮影したりして充分な休息時間を取ることになる。
この屋上で、以前はチベットの民族服を着せて貰い記念写真を撮ったりすることが出来たが、今は何も無い!それならばと、私は日本からわざわざ持参した朱塗りの鳴子(なるこ)を取り出すと、「正調よさこい鳴子踊り」の一節を踊り記念撮影する。背中の「颯爽」の文字が実にサマになっている(とおおいに自画自賛する)。
15分程度の休憩をとり、ポタン・カルポの屋上からポタン・マルポの第3層(11階)に入り、屋上に一旦登る。
ポタン・マルポ(紅宮)の屋上(13階部分)からは歴代のダライ・ラマの霊宝塔が見え、黄金色に輝く屋根は世界遺産にふさわしい。
下の第4層(12階)のパクパ・ラカン(聖観音堂)はポタラ宮でも最大の神聖な場所とされており、7世紀にソンツェン・ガムポ王が築いた王宮の遺構で、白檀の観音像やパドマサンバヴァ(グル・リンポチェ)の足型などがあるほか、ダライ・ラマ13世の霊廟である十三世大霊塔(高さ13m)もある。
もうひとつ下の第3層(11階)には、巨大なカーラチャクラの立体マンダラである金銅製のドゥンコル・ラカンが安置されている。
これはポタラ宮でも最大の呼び物で、珊瑚に琥珀、トルコ石などが埋め込まれており、表面の彫刻も精微で、チベット仏教美術の最高級品である。
部屋内は薄暗く、撮影禁止なのでAさんとWさんは大変残念がる。以前は写真撮影なら50元、ビデオでの撮影は800元を支払えば決められた場所なら撮影OKであった。しかしその他の場所で、こっそり写真を撮ったりビデオ撮影したりすると、係りの僧がすぐに飛んできて法外な撮影料を要求されたり、別室に連れて行かれ、これまた法外な御布施を強要されたが、今はまったく無い。
そしてあれだけ多く居た僧が、今は1階づつに2〜3人しかおらず、それも15〜6歳までの小坊主しかいない。
またポタラ宮には部屋の総数が1,000を超えるともいわれていて、迷路を行ったり来たりするのも楽しみのひとつだったが、今は定められたコースを見学する(見学させられている)ことにも抵抗を感じる。
それにチベット各地から聖地巡礼に来る巡礼者たちの姿と、バター彫刻の「トルマ(ヤクバターと小麦粉を練って仏塔などを形どった御供え物)」も指を折って数えるほど極端に少なく、チューメ(ヤクバターの灯明)が微かにうごめくのは寂しい。
ポタラ宮内には1〜13世までのすべての像があるが、世界無二で荘厳の名を欲しいままにしてやまないのは、第1層(9階)のダライ・ラマ5世の霊塔である。高さ15メートルの霊塔には5トンの黄金が使用され、珊瑚やトルコ石のほかに瑪瑙や琥珀など1,500個もの宝石がちりばめられている。これには圧巻の言葉しかない。
このほかに第1層には紅宮最大規模の西大殿と、ゲルク派の高僧たちを奉る道次第殿やニンマ派の開祖パドマサンバヴァを奉った持明殿などがある。
ここを見終え北側の出口から出て坂道を下ると、タンカや珊瑚とトルコ石で彩った首飾りや腕輪などを観光客目当てに売っていた土産物屋などがある。
この付近にはかってはショル村と呼ばれていたチベット様式の住居があった。だが住民は立退きを余儀なく移転したが、建物は現在も潰されもせず、そのまま廃墟と化しているのを見るのは無残だ。
そしてまた、数年前まであったコーラに自動車、電気製品などの大看板が撤去されるなど、ポタラ宮前の広場の大きな変貌にも驚きを憶えた。
12:25、昼食は昨日と同じ雄巳杭大館で、同じ料理は出なかったが、また余らしてしまった。
食事のあとジョカン・ゴンパ(大昭寺)に向かうが、市内は至るところで道路工事をしている。それはおもに直径3mの巨大なコンクリート製下水管の埋設工事だ。だが日本ほど機械化されていないので、5〜60メートルの工事も重機は1台で、90%は手作業である。
それに新しい幹線道路が幾つも出来ていたり、拡幅工事で道が広がっていたり、新しい高層ビル(15階程度)が15軒近くもあり、4年間の空白が長いことを知る。
その一方、無居住のビルが多くあるのも事実である。
ジョカン・ゴンパ(寺)の前の広場は、相変わらずの賑わいである。バスから降りた途端、「千円!千円!」の声が掛かり、ウンカのように物売りが集まってくるのも相変わらずである。
しかし東南アジアばかりではなく、ハワイやグアムはおろか中近東やUSA本土まで「千円!千円!」の声が飛ぶのは、誰が広めたのであろう。口コミで広まるものなら、私はSARS用のブラジャー・マスクを日本で売りたい!

それらを振り切り正面前に着くと、巡礼者が五体投地をしながら熱心に祈ってる姿が見られるのはテレビでもお馴染み光景だ。
しかし尺取り虫の様に僅かながらでも前に進み寺内に入るのが、巡礼者の巡礼たる姿ではないだろうか。しかるに彼等は日長1日、動かない。時より白人系の外人が10元札などを喜捨すると、にんまり笑ったりするのには、腹立たしさを感じる。
13:38、気を取り直して四天王像が並ぶ正門を入ると、すぐに大中庭に出る。左手にシュティ・チェンモ(ダライ・ラマの玉座)があるが、今は白いカーテンで隠されていて、まったく見えない。
用意した懐中電灯で奥の暗がりを照らすと、そこがジョカン・ゴンパ(寺)の本殿である。そこには正直で熱心な巡礼者が、チベットの習慣に従い、マニコル(マニ車)を廻しながらコルラ(時計廻りの右遶)をしているのを、眼のあたりにする。その口からは、オム・マニ・ペメ・フム(蓮華にある宝珠に幸いあれ、日本の南無阿弥陀仏と同じような意味)の真言の言葉が洩れている。
男は毛皮の分厚くて長いチュパを、女は長袖のブラウスにパンデンと呼ばれるカラフルなエプロンなど、アムドにカム、ンガリにウ・ツァンなど、その土地柄に合わせた民族服を着用している。三つ編みに紅珊瑚や青いトルコ石に琥珀などの首飾りを身に着け、精一杯おしゃれをしているのは若い娘たちだ。
順路案内に沿って、歓喜堂、無量光堂、薬師堂、観音堂、弥勒堂、ツォンカパ堂にオタン湖堂を見て廻り、再び無量光堂があって、この寺のメインである釈迦堂の前に出る。
ここは非常に混雑する場所で、その理由は巡礼達が五体投地をしたり、チューメ(ヤクバターの灯明)を供えたり、黄金の釈迦牟尼像(12歳時の姿)にカタを掛けたり、真摯的な「信仰に生きるブッダの民」が台座に頭を押しつける姿があるからだ。
ここで注意をせねばならないのは、大渋滞の影響でチューメに注ぎ足すヤクバターを溢す者が多いので、転倒して尻餅をついたり、時には捻挫を、ひどい時は骨折する場合があるので要注意である。
次に弥勒法輪堂、獅子吼堂、菩薩主眷属堂など続くが、それはガイドブック等を先に読んでおいた方が面白いし、さらにマニ車を右手で廻しながら壁に描かれた仏画を見るために、再度一回りしても損はないと思う。
さらに欲を起こせば早朝のダイナミックな読経に聞き惚れるのも良いだろう。その時は、絶対に数珠とお布施を忘れない事!!
それから日本の神社仏閣のように格式や形式、そして歴史や考古学的見地、あるいはワビサビ感などと日本的講釈はチベットのゴンパでは一切通用しないので注意!!
極彩色に彩られた仏像に、これまた極彩色の壁画、さらにタシ・タギェ(八吉祥紋様)など上から下まで空間のすべてを極彩色で埋め尽くさないと気に入らないというチベット人の発想を理解しよう。またそれがチベットの旅の醍醐味でもあるのだ!!
続いて弥勒四処堂や南門有鏡堂などを経て、大中庭に戻るのであるが、途中から2、3階へ登る入り口があるので要注意である。
私は大中庭でガイドのラチィさんに注意され、2階への階段を必死に探す事を経験した。
屋上には大法輪とジョカン金色臥鹿があり、AさんWさんには格好の被写体で、ここではポタラ宮を背景にいれて撮影しても面白いものが出来るだろう。私も取り急ぎ買ったバカチョンカメラに、例によって「よさこい」を踊っている姿を撮影して貰う。
そのあと、下を覗き広場風景を撮影した。ふと気が付くと歌声が聞こえて来る。その方向を探すと東端の塔屋から聞こえるので行ってみると、20人前後の女性たちが歌いながら踏み固め?工事をしている姿が眼に入った。
浴槽を掻き混ぜる木製の円形盤付きT字形みたいな棒を使い、労働歌を歌いながら足踏み作業は、これまたテレビなどで見た事がある。
撮影しょうとカメラを構えたが、あいにく後向き、シャッターチャンスを狙って待とうとしたが、搭乗員の久我さんの「時間ですよ」の声に一枚だけ撮影する。もう一枚と思ったがフイルムが廻らない、最後の一枚だった、諦めるしかない。
強烈なチューメの匂いから逃れ広場に戻ると、再び「千円!千円!」の物売りが怒涛のごとく集まって進路を阻む。
そこへ黄さんの思いがけない言葉を聞く。
私は、パルコル(八角街・八廓街)巡りをしてタンカ(仏画)やペチャ(経典)、それにチンシャやプルパなどの仏具を買い求めたかった。そして私本来のツァーの参加目的であるところの、それらのショッピング風景を含め、旅行中の出来事全部を、日本語からチベット語に訳し「憧憬のチベット・太陽の都市、[ラサ]へ旅をしょう」なる会話集を、ソナムと製作しょうと、その下見検分を兼ねての旅のつもりであったのだが、黄さんは「パルコンの至る所で道路工事をしており、道は散り散りに分散されており、裏通りは複雑に入り組んでおり、私自身も元のこの広場に皆さんを連れて戻れる自信がない!」と言う。
その言葉の裏にはチベ好きの私には、少しばかり思いあたる節もある。
第1に清潔度の低い繁華街を案内しSARSに感染でもすれば、国家的にイメージ・ダウンになるのを恐れているのであろう。我々の中にはマスクをしている者が、半数しかいないせいもある。
第2にK氏やK夫人のような方もいるし、H・T氏やB・Tさんも歩き疲れで疲労の色が濃いのも、ガイドとしては辛い立場でもあろう。
「30分の自由時間をとりますので、撮影や買い物など楽しんでください」との言葉に、私は今まで習ってきた(訂正・ナマケてきた)チベット語を駆使して買物を試みる。
左右に並ぶ店は移動式屋台で間口1m50前後か、奥行きも80cm程度である。屋台のボディには、すべて番号が描き込まれており、136号の数字を確認したが、右側に背中合わせに並ぶ最後の数字であるのか、左側に並ぶ屋台も同じ形態ので、それ以上の台数があるのかは、行く手を阻む売り子の群れで確認できない。
117号店に首を突っ込み「タシデレ!アジャラ!ディ カリ レ—ペェ(こんにちは、すみません、おねえさん。これは何ですか?)」と金属プレート判を指差して尋ねる。
それはポタラ宮の下に十二支が描かれ、裏は釈迦牟尼像の場合もあれば四譬観音の場合もあるが、自分の干支を申し出て、ポタラ宮に行ってきたという証しに買う記念品である。
ところが50歳位のチベットのおばさん、チベットを話す客など、まったくいないと思っているから、いきなりチベット語で話されたので吃驚して口をあんぐりして、答えられない。そこで「ウパクメ レーペェ(阿弥陀さんですか)?ジャンパ レーぺェ(弥勒菩薩ですか)?」聞いてみると。やっとの事に「サン ゲ シャキャトゥパ レー(お釈迦さまです)とチャンレスィック レー(観音さます)」ですと、恥らいながら答えてくれた。
チベット人はシャイな人が多いのだ。「コーモ カツェ レー(いくらですか)?」と訪ねると「ギ〜プチュ ゲ(80元)」という。そこで「ゴン チェンポドゥ、デーツ チャータン!シ〜チュ レ(値段が高い、ちょっとまけて40元にしろ!)」というと、あっさり40元にしてくれた。
値切ることにかけては「生き馬の眼を引き抜く大阪は船場育ちの私の右に出る者はいない!」
まぁそれは冗談にしても、この手の買物は観光客だと見ると2〜3倍はおろか5倍以上吹っ掛けてくるケースが多いので、値引き交渉は充分しないといけない。
なぁ〜に言葉は解らなければ、百円の計算機で「セールス・オフ」とでも言って、売主に数字を押させて、その2分の1の数字に訂正すれば70%はOKで、売主が渋るようだったら「マレ マレ モゴ!」と言って店を出る振りをすれば、売主は追いかけてきて「ハコソン(分りました)」と、95%いう筈である。
言わなければ、その店は本当に正直な店である。その場合はこちらの負けで、素直にそのまま店を出て、次の店で同じ物を交渉しなおせば良い訳である。
ところで、この店のアジャラー(ねえちゃん)とは妙に気があって、珊瑚とトルコ石の首飾りを3ケで150元、同じ珊瑚にトルコ石の腕輪が12ケを300元で、合計額にして450元で買ったが、その横にある紅珊瑚と紅珊瑚の間に銀環の継ぎ手が付いて目玉模様の「ジー」の混じった首飾りは特別高く、1ケで同額の値段である。
アジャラーは、この首飾りが「売れれば5人家族が10日間潤うことが出来るんです(とは言わなかったが、目が言っていた)」とばかりに哀願している。
「うぅ〜ん」と唸っていると、琥珀の腕環とヤクの骨で作ったという香入れと材料不明の香水入れをオマケしてくれたので、結局記念プレート1組にマニ車の置物2ケとチベタン・カラーの縞模様の携帯電話入れなどに使用するミニ・バッグを8ケ(全部買い占める)、それと虎眼石の数珠と共に「アジャラーの気持ち」を買ったので、1,150元は安い買物だと思う。
15:40、あれやこれやと交渉していたので時間が過ぎ、約束の待ち合わせ場所に行くと私が最後の待ち人で、バスはすぐにセラ・ゴンパ(色拉寺)へ向かった。
セラ・ゴンパは、林廊北路より色拉路と呼ばれる大通りを北へ15分ほど走り、セラ・ウツェ山麓に建つゲルク派の大僧院である。
チベット史書によれば1419年にツォンカパの弟子、ジャムチェン・チュジェ・シャキャ・イェシェが創建したとある。ここはツォンカパの弟子たちの修行場所であるが、日本とは縁の深い寺で、チベットがまだ鎖国していた頃に潜入した河口慧海や多田等観も、ここに滞在してチベット仏教を学んだという。
セラ・メ・タツァンは顕教の基礎を学ぶ学堂(勤行堂)で主尊は釈迦牟尼の尊像で、創健者のシャキャ・イェシェの像がある。
チェ・タツァンはメ・タツォンと同様顕教を学ぶ学堂であるが、その規模はセラ寺で最大だ。
学内のタムディン・ラカンは、馬頭観音像を主尊としており、子宝に恵まれるという御利益があるという噂で、観音様の足下に額をすりつけ一心不乱に願掛けをする女性巡礼者の姿が、あとを立たない。
屋上には大法輪に臥鹿が天空を背に輝いて威厳さを示している。そこで大いになる感銘を受けたことに感謝し、例により1枚撮る。
撮り終えて東側に向かう。すると学僧たちが問答をしているのを見る。話しには聞いていたが、その実態を見るのは始めてである。
たいていは3〜4人が1組で、質問する僧は仁王立ちになり意気猛々しく手を大きく叩き「さぁ!我が質問に答えられるものなら答えてみろ!」とばかりに両手を広げる。それに対し座している者は、釈迦牟尼の平常心のごとく振る舞い、なんのそれしきの事、差したるに及ばず、答えは「‥‥‥じゃ!」と叫ぶ。この問答も修業の内の一つで、これらを毎日繰り返し、ある時期が来ると口頭試験に変わり、全員の注目を浴び、上級者の質問に答えられた者が昇級を許され、次の段階に進むのであるから、学僧たちは真に口から泡を飛ばし、口に宜しく華が咲けと、問答の応酬がチョラ(中庭)全体に響き渡るのである。だからではあるまいが、タムディン・ラカンの文殊観音の顔が右に傾いている由縁かもしれない。
AさんとWさんには、格好の被写体であろう。おそらくは36枚撮りで2本は費やしたと思う。
この私でさえ15枚はシャッターを押したのだから。だが幾多の撮影会で最優秀賞や金賞を撮ったと豪語するAさんや日本カメラの年間最優勝賞を誇るWさんに負けぬアングルは、使い捨てのバカチョン・カメラの中に、老僧と並んだ写真や学僧たちと会話している私の様子が写っているのは、ダヤン・ウルスのチベット語教室に通い真剣?に習った私の努力の賜物以外何もないと、自我自讃してやまない。
EさんとSさんを夕食に誘うべく一旦ホテルに戻る。
「明日の早朝には成都に向けて戻る予定でなので、今夜はチベタン郷土料理を食べながらタシデレ・ショーを見学する予定です」と、搭乗員の久我さんの説明がある。
その言葉を聞いた途端、T・H氏にO氏、NにWさんら男どもは「酒が飲めるぞ!ビールが飲めるぞ!」と舌舐めずりをする。
私もホテルに戻ったのは本当に正解だったと思う。なんとタシゲル氏がホテルのロビーで待ってくれていた。
早速自室に案内すると、誤って渡してしまったデジカメの電源コードを差し出してくれる。そしてそればかりではなく、私にペチャ入りのマニ車を、ソナムには釈迦牟尼像を御土産にプレゼントしてくれる。
それからチベットを離れ留学中のソナムがセンチメンタルにならないようにと故郷のアムド地方を背景に踊る民族舞踊のDVDと最新?の歌謡曲のDVDを2枚、さらにソナムが哀願するように欲しがっていた書籍類と、タシゲル氏の家族写真を託される。
タシゲル氏はかなりの時間待っていた様子だったので、2階のレストランで「コーヒーでも」と誘ったが、「患者さんが待っているので病院に急ぎ帰らないと」と固持されるので、私に費やす時間よりも、患者さんに使われた方が良いに決まっているので、「また機会がありラサに来る事があれば、ゆっくりお会いしたい」と言って別れる。(正直に言えば、半分は英語、後の半分は身振り手振りとチベット語)
19:10、吉日旅館(キレーホテル)で「タシデレ・ショー(民族舞踊)」を見ながら夕食が始まる。
「食事はバイキング形式で、飲み物は軽いドリンクは無料だが、拉薩ビールやチベット酒(チャン)は有料です」と説明を受けたが、その言葉が終わるよりU氏とK氏の注文の方が早かった。
私は、バター茶を真っ先に注文した。私の器にバター茶が注がれるのを見て3人の御婦人方が注文された。その方々には「スープと思ってお飲みください」とご忠告申し挙げたが、澄ましや味噌汁に馴染んでいる方々には、やはり無理なご様子で最後まで飲み干された方は1人もいなかった。
無理といえばK夫人にEさんはバイキングに行かれても、無難なパレとショゴ・カツァとシャムデを少々召し上がった程度で、Sさんについては重度の高山病のためミネラルウォーターのみで、3人掛けのソファーで寝ておられたのは痛々しく「気の毒」としか言い様がない。
N氏とO氏も最初はチャンを注文したがサービス分の提供を受けたあとは、T・H氏やUさん、そしてAさんやWさん、それにK氏らと同じ様にビールを急ぎ注文する。
私などは飲めない体質もあるが、気が抜けた拉薩ビールなど飲みたくもない。そこで私は自棄食いに走った。
羊の塩ゆで肉にヤクの干し肉とギュマ、捻りん棒のツァンパとモモに赤唐芥子を、別の皿にはシャムデにラブー添えの上にシャパレを2枚。
だが中高年のYさん夫婦、Eさんや食の細いFさんには、これまでの中華料理の方が口にあっているのではないだろうか。一皿ずつ、お代わりなしで止まっている。

皆さんの手が止まっているのには、もう1つ理由がある。舞台ではチベッタン・ダンスが行われている。
#タ〜シデレ〜〜タシデレショショー♭#タ〜シデレ〜〜と、アチェ・ラモの曲に乗って若いポ・モたち3人の優雅な踊りが興じられており、次はカム特有の髪飾りの「ダシェ」が出てきて長いチュパを振り振り歌い踊るが、曲目は黄さんに聞いても2曲目3曲目も不明で、4曲目は2人づつの男女が出てきて踊るのだが、「アンナ・セキァー」という曲名だと教えて貰った。5曲目6曲目も曲目は不明だが、「牧羊人」ではないかと言い、カ〜ンチェン〜・エエェーエの声と鈴の音が耳に残る。だが共にリズムにあわせて女性たちは優雅に、男たちは小気味よく、時には激しく勇壮に踊る。
曲が踊りが替わる度に、AさんとWさんのフラッシュが光り小気味良いシャッター音がする。私のデジカメは30分の充電では残量切れのマークが付きっぱなしで、ダマしダマし使った結果と早い動きについて行けずボケが多く、とても残念だ。
我々一行はそこそこの満足度だが、後部座席や横の座席に陣取る地元のチベットの人たちには、故郷の歌であり愛唱歌でもあろうか、手拍子をしたり足拍子をしたり声を張り上げて歌ったり、はたまた口笛を吹いたりで、多いに盛りあがる。
だが時間という無常が10曲目の「#〜〜テンツゥ−・タシ〜デ〜レィ〜##チョンセィヤーチュンセィーヤラチョンセーで終わり、あとはアムドにカム、ンガリにウ・ツァンなど各地方の民族衣装を身に纏った一同が、ファションショーのように華やかに舞台に勢揃いする。
我々はそのフイナーレの曲が始まると立つ。終わるまでに店を出て行くのが礼儀なのである。
しかし酔いしれたチベット人たちの勢いは止まらず深夜まで続くであろう。我々が好きなチームの勝ち負けに、一時の開放感をもつように、ラサの夜は更けて行く。
明朝の出発時間を説明している久我さんの話しをろくに聞きもせず、ホテルに着いてからの宴会の話しに興じて後部座席に居座るホロ酔い気分隊、いや、ベロベロ隊!の意気は高く、黄さんも苦笑している。
そんな黄さんに、私はキチュ(ラサ)の川岸に訝しげに建ち並ぶ建物群について尋ねてみた。
3メートル近い塀を巡らせているのにもかかわらず、建物の屋上のド派手な看板と原色のネオンが嫌が応でも、そこがいかがわしい場所である事を証明している。
黄さんの話しでは、5年前に河川敷を整備したおりに財閥系の企業が払い下げを受け、1〜2軒の飲食店が出来、2〜3年目にホテルが、昨年にはナイトクラブが、そしてアレよアレよと言っている内に一大の繁華街になってしまったとか。
もちろん自治区政府にも苦情が上がったが、賛成派反対派に分かれ、結論がなされない内に、巨大な資本の前に立ち尽くす以外しかなく、非合法的な街を、善良な市民と旅行者の安全の為にも、なるべく見て貰わないように高い塀を巡らせるしか方法はないとかで、黄さんも言ながら辛そうであった。
・・・これも時の波か?再び訪れたいと思う私に、ラサよ失望感を与えないでくれ!!
