インドの中のチベットへ 第一話「赤い紐」

今回は山本幸子さんからのお便りをご紹介致します。全5話でございます。


私の財布にはいくつか余分なポケットがあって、カードなどを入れることができる。私はそれらに、テレホンカードやバスの切符を入れている。そのひとつには、赤い紐がはいっている。財布をあけてその紐がのぞいていると、私はそれをそっとポケットに押し込む。

これは大事な紐なのだ。チベット人たちの心の拠り所であり、ノーベル平和賞受賞者でもあるダライラマ十四世から、人づてにもらったお守りなのだ。

一九九八年夏、インドのダラムサラでこれをもらった時、私は今までの人生で最大の危機のさなかだった。

インドへの旅は二度目だった。一度目は十五年前、一九八三年の夏だった。この年を忘れないのは、その秋から私が詩作をはじめた、記念すべき年だからでもある。往復の飛行機の切符と一日目のホテルを予約しただけの、一人旅だった。動機は別になかった。インドへ一度行ってみたかった、というだけのことだった。

動機は漠然としていたが、この旅に、芯のようなものはあった。

(仏教遺跡をめぐる)

というのがそれだった。仏教に特別な興味を持っていたわけではない。ただ私には、海のように広大なインド亜大陸で、自分が一滴の水のように融けてなくなってしまいそうな不安があった。だから、何か芯か骨のようなものがほしかった。そして私の貧しい予備知識からは、仏教以外にそれらしいものは思いつけなかった。

そんないい加減な旅人にも、インドは強烈な印象を与えてくれた。魅力的な国だった。でも同時に、底知れなさを感じさせる国でもあった。その後、私はまた行きたいと思いながら、インド訪問をつい後回しにした。怖かったのである。

仏教では縁ということばがよく言われる。私が人生の紆余曲折を経てチベット仏教にたどり着いたこと自体、「縁」によって、としか言いようがない。そして今回のインドへの旅には、はっきりした目的があった。生のチベットを身を以て体験することと、チベットの法塔と祈祷旗に関しての資料を得ることが、それだった。

チベットは政治的には中国の一自治区であって、国ではない。そしてチベット自治区で、チベット人は思想信条の自由を持たない。チベットの精神文化を大切にして生きたいと思うチベット人は、命がけでヒマラヤを越えて亡命し、難民となるしかない。

彼らがまず目指すのはネパールか、インドである。そしてインドの北郊、ヒマラヤ山麓のダラムサラには、ダライラマの亡命政府があり、図書館もある。ここが私の旅の目的地だった。

私は今回のインド訪問の旅を、一度目と同じように一人でするつもりだった。英語力にも精神力にも自信はなかったが、大事なことはひとりでするもんだと、いつものように思っていたからである。

私は京都にある佛教大学の大学院に籍を置いている。それで私は、先生や学友の誰彼に、インド旅行のことを触れ回った。うれしがってのことではない。誰かが役に立つことを言ってくれるかもしれないと思ったからである。

実際に何人かの人が、有益な助言をしてくれた。それだけではなかった。その内に、
「いっしょに行きたい」

と言う人があらわれた。同じ大学院で学ぶ、台湾人の留学生のリムさんである。リムさんは尼僧で、インドへは以前に一度、団体で仏跡巡りをしたことがあるらしかった。

私はリムさんに念を押した。

「面白い旅じゃないですよ。田舎のちいさな町に滞在するだけで、仏跡を巡るわけじゃないですよ」

リムさんは、それでかまわない、と言った。仏跡はもう巡ったし、あちこち行きたいとも思わない、インドに行ければいいのだ、と言うのだった。

私は連れができるとは思っていなかった。でも、できて悪いとも思ってはいなかった。そんなわけで、私たちはいっしょに行くことになった。出発まで、まだ数か月あった。準備はたいして必要ないと、私は思っていた。デリーまでの飛行機の往復切符と、往路のデリーでの宿の手配と、ダラムサラまでの夜行バスの切符と、帰路でのタージマハール二泊の小旅行の手配を旅行社に頼んだ。最小限必要なことだけを前もってして、あとはその場で、成り行きに振り回されながらモタモタやるのが、私好みの旅だった。

七月二十九日、尼僧姿のリムさんと私は飛行機で出発した。機内食は二人ともベジタリアン用を注文した。リムさんは台湾の尼僧としての戒律を守っている。その一つが菜食である。私は普段、野菜を中心とした食事を心がけているが、ベジタリアンではない。でも、この旅の期間中だけ、リムさんにつきあってベジタリアンになることにしたのである。ただし、お酒は飲む。それで関空の免税品店でオールドパーを一本買って、機内に持ち込んでいた。

デリーでは現地の旅行社の人に迎えられ、デリーの中心部、コンノートプレイスに近いホテルに投宿した。翌朝、朝食をとりに二人で食堂へ行ってみると、東洋人の仏教僧の一団が食堂を出るところだった。その人たちはリムさんの知り合いらしかった。あとでリムさんの話を聞くと、彼らは台湾人で、これからダラムサラへゆくのだという。私たちは、不思議な縁だと驚き合った。

私たちには、その日の内にしなければならないことがたくさんあった。まず第一に、帰りの宿を予約する必要があった。私たちは地図をたよりに歩いてYMCAへゆき、数日分の予約をした。

次の目的地は郊外にあるチベットハウスだ。ここへゆくには、リキシャをつかまえる必要があった。インドのタクシー運転手は一般に油断がならない。しかし私たちは、幸運にも数台目で比較的印象のよい運転手をみつけて、彼のオートリキシャに乗ることができた。

チベットハウスに着き、メーターを見て料金を払おうとすると、運転手が何やら言って、紙きれを取りだした。どうやら料金が上がっているらしい。メーターの料金と新しい料金の換算表が、その紙に印刷されているらしかった。しかたがない。ここはインドだ。日本での常識は通用しない。私たちは換算表を見て料金を払った。

私の佛大での指導教授はチベットハウスの所長と親しい。それで私は、所長あての紹介状を書いてもらって、持参していた。

紹介状の効力によるのか、チベットハウスでの待遇はよかった。私たちは仏像や法塔を展示した部屋を案内してもらってから、所長室へ入れてもらった。所長は日本が好きだと言い、私がかたことの英語で話す旅の目的を、あいそよく聞いてくれた。次の目的地はアメリカンセンターだ。そこには法塔の研究書を書いたチベット人研究者、ドルジェ氏がいるはずだった。私は所長にそう言って、チベットハウスを後にした。

アメリカンセンターはコンノートプレイスに近い。私たちはまたオートリキシャをつかまえた。このリキシャの運転手はメーターを使わなかった。彼は私たちに料金をふっかけるつもりのようだったが、私が往路の料金を言うと、しぶしぶそれで納得した。

アメリカンセンターの受付でドルジェ氏の名を言うと、間もなく彼が出てきた。かっぷくのよい青年だった。私は日本で彼の著書を読んで手紙を書いたことがあったが、返事はもらえなかった。しかしこの時は、

「山本です。日本から来ました」

と言う私を、彼はとてもあいそよくもてなしてくれた。コンピューターが何台も並んだ広い部屋の一角が、彼の仕事場らしかった。そこで彼は私の旅の目的を聞き、机上のコンピューターを使って検索し、法塔に関する資料のリストを印刷して、私にくれた。そして、資料はもっとある、調べておくから帰りにまた寄るように、と言ってくれた。それから彼は、私のノートに数行、さらさらと英語で書いて、ダラムサラの図書館で見せるように、と言った。

何もかも順調に運んでいた。ドルジェ氏は入口まで私たちを送ってくれた。私たちはそこから、歩いてホテルまで帰った。

私たちはこの日の内に、ダラムサラ行きの夜行バスに乗る予定だった。切符は前日に旅行社の人から受け取っている。しかしバスは、どこから出発するのだろう。私が持参した『地球の歩き方』によれば、コンノートプレイスの近くから出るらしかった。

ホテルのロビーでたずねたが、誰もよく知らないらしい。いろんな人がいろんなことを言っている。そして最終的に、国際線バスのターミナルだ、ということになった。

ガイドブックに書いてあることと違うようだが、ここはインドだ。そのくらいのトラブルはしょっちゅうあることだ。私たちは預けておいた荷物を受け取り、呼んでもらったタクシーで出発した。タクシーはメーターで走ってくれた。

バスターミナルに着いて受付で切符を見せると、様子がおかしい。どうやら私たちは見当違いの所に来てしまったらしい。バスの出発時間がせまっていた。私はあせった。

受付にいた女性は電話をあちこちにかけた。それから私に、

「バスは別の所から出ます。バスにはあなたのことを言って、出発を待ってもらいました。そこまで、タクシーで行きなさい」

というようなことを言った。そして受付にいた女性の一人が、私たちについて来るように言い、タクシーを止めて料金を交渉してくれた。礼を言っている時間もなかった。私たちは運を天にまかせて、タクシーに乗った。

タクシーはどうやら来た道をもどっているようだった。そして町中のビルの前に止まった。私たちは急いだ。ビルを走り抜けると、裏庭にバスが一台止まっていた。それが目的のバスだった。

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