今回は山本幸子さんからのお便りをご紹介致します。全5話、最終回でございます。
困っているところへ、インド人男性が二人、あぜ道を歩いてきた。私は事情を話した。二人はうなずいて、すぐに行動をおこした。
やせて見えるが、がっしりした中年男性だった。二人は手をつなぎ、その上に私をすわらせた。私は両手で二人の肩にすがった。
舗装路にもどると、二人は私を路傍の石にすわらせて、タクシーを呼びに姿を消した。タクシーはそんなに待たない内に来た。
その日は日曜日だった。ダラムサラに着いて、アニラが推薦する医院に行ったが、医者はいなかった。それでそのままチベット人居住区までもどり、そこの病院へ行った。そこにも医者はいなかったが、看護婦が、痛み止めの薬と保冷剤をくれた。
ダラムサラは山腹の町だ。タクシーが止まったところとゲストルームの間には、十数段の急な石段があった。運転手とアニラに助けられて、私はこの階段を登り、部屋にたどり着いた。
部屋にはリムさんがいた。アニラが、
「明日の朝、病院に送りに来ます」
と言って去ったあとで、私はリムさんに事情を説明した。するとリムさんは、ペマさんに相談しようと言いだした。
ペマさんはチベット人青年で、中国語も流ちょうに話す。リムさんはペマさんと中国語で話して、いい友人関係になっていた。
リムさんは出ていって、間もなくペマさんともどってきた。
「今日の内に医者に診てもらうべきです」
ペマさんは言った。そしてすぐにタクシーを呼んでくれた。私はリムさんとペマさんに助けられて階段を下り、タクシーに乗った。ダラムサラの公立病院はあいていた。しかし医師は、
「レントゲン技師がいないから、明日にならないと処置はできない」
と言って、私のお尻に、注射を一本打った。
(これで肝炎になるかもしれん)
私はケガそのものよりも、その方がこわかった。
再びタクシーに乗り、階段を登ってゲストルームにもどる。難行苦行だ。ペマさんは明朝病院へ同行すると約束して帰った。
翌朝早く、花井さんが訪ねてきて、私のケガにびっくりした。花井さんはダライラマの護符をリムさんと私にもらってくれていたのだった。私たちはそれを感謝して受け取った。先生たちやアニラへのお礼の品物やカタの世話を、私は花井さんに頼んだ。
間もなくペマさんが来た。そしてまた階段。病院に着くと、レントゲン室は二階で、エレベーターはないのだった!
ペマさんは私を背負ってその階段を登ってくれた。レントゲン室では、数人の患者が順番を待っていた。私はその後ろで待った。数人分の放射能を浴びてから、私の番になった。
階段の下りは、手すりにすがって自力で降りた。医師はレントゲン写真を見ながら何やら言ったが、一言も聞き取れない。ペマさんが聞いて中国語訳し、それをリムさんが日本語訳してくれる。
右足はやはり骨折しているらしく、石膏のギブスを巻かれた。ペマさんは処方箋を持って、薬と一本の杖を買ってきた。それは松葉杖ではなかった。コーモリ傘の柄のような握りのついた、ただの杖だった!
石膏が乾くのを待って、私たちはまたタクシーで帰った。また階段!そして私は、デリーまで、今日の夜行バスに乗るのだ!
ペマさんは、
「山本さんには二人分の座席が必要だから」
バスの切符をもう一枚買うべきだと言い、買ってきてくれた。
うとうとしたりパンを食べたりして午後をすごして、夕方になった。バス乗り場へは、ペマさんの友人が送ってくれた。また苦行の階段下り。
私の席は最前列だ。二人分の席に横向きにすわって右足を伸ばす。人々が乗り込んでくる。
「オー、ニンジェー!」
一人のチベット人僧侶が私を見るなり言った。
ニンジェーは「かわいい」の意で、時に「かわいそう」の意味で使われる。この時、このことばは私の内臓に響いた。
バスの旅は予想したほどつらくなかった。しかし一度だけ、夜中にトイレに行きたくなった時には困った。通路に立って困惑していると、中年のチベット人女性が、
「トイレット?」
と聞いてくれた。そうだと言うと、彼女は私をがっしりかかえて、暗い物陰まで連れていって、用足しをさせてくれた。
バスは無事デリーに着いた。私たちはYMCAを予約している。タクシー運転手たちが寄ってきた。
「YMCAへ」
と言うと、変な顔をしている。聞くと、今日はデリーに要人が来ている。それでコンノートプレイスあたりはその人を歓迎する人々でごったがえしていて、車は入れない、と言うのだ。
「安い、いいホテルを紹介するから」
そこへ行けと言うのだ。とんでもない!
私は杖にすがって立ったまま、交渉した。彼らはゆずらない。私はその時、花井さんから日本寺の住所を聞いていたことを思い出した。そこはデリー郊外だ。
私はとにかく、まっとうな人間に事情を聞きたかった。
彼らもその寺は知っていた。そして中の一人が、そこまで乗せると言って、ようやく私たちはタクシーに乗ることができた。
走りだすと、運転手は振り返って、何やら言いだした。
「道は混んでない。YMCAへ行ける。200ルピーで行く」
何ということだ!それに、ここからYMCAまで、そんなに遠いはずがない!
私は降りると言った。他のタクシーに乗るからと。
運転手は何やら言った。聞き取れない。すると彼は一枚の札を取りだして振った。百ルピー札だ。百ルピーで行くと言っているのだ。
それでも倍以上だと思ったが、私はもう疲れていた。それでいいと言うと車は走り出し、間もなくYMCAに着いた。
車がYMCAに着くと、門衛がすぐに車椅子を用意してくれた。
(助かった)
修羅場を一つ越えたと思った。
YMCAでの滞在は快適だった。私はタージマハールへの旅をキャンセルし、その期間もYMCAに滞在することにした。関空までのエアインディアの切符のリコンファームは、旅行会社に頼んだ。
出国の前日、私はタクシーを呼んでもらった。運転手には、公立のいい病院へ行ってくれと頼んだ。運転手は青年だった。彼は公立はすすめない、と言った。
「私立のいい病院に、いい医者がいます。公立は安いけれども、いい医者はいません」
日本の常識とは違うようだった。私は彼に任せることにした。彼はタクシーの配車場へ行き、職員と相談しながら探してくれた。
「イーストウェストメディカルセンターに、いい先生がいます」
私は彼を信じることにした。それは郊外の、小さな診療所だった。私はそこで、懇切な扱いを受けた。医師は深い知性を感じさせる容貌で、美しい英語を話した。
「明日、日本へ帰ります」
「それは大変」
医師は新しくプラスチックのギブスで足を巻き、機中での気圧の変化に対応できるようにと、それに切れ目を入れた。
それから懇々と注意を言った。しかし私に聞き取れたのは、三つだけだった。
「右足に体重をかけないこと。転ばないこと。機中では右足を心臓より上にあげておくこと。」
私は翌日の空港への片道を、青年に頼んだ。悪質な運転手とのトラブルは、もうこりごりだった。
翌日、私は無事空港まで送られた。空港に着くと、職員が車椅子を用意してくれ、搭乗するまで世話してくれた。
旅慣れた日本人青年の乗客が、指定席を取るのを助けてくれた。おかげで、最前列の、右足を上げていられる席が取れた。
機中には日本人のエアホステスが一人いた。彼女は親切で、
「ビジネスクラスのトイレを使っていいです」
と言ってくれた。
ところが、飛行機は一向に離陸しない。エンジントラブルだという。私たちは一晩中、エアコンのきかない機中にとじこめられた。
早朝、私たちはいったん外に出されて、郊外の高級ホテルに運ばれて仮眠した。そして昼食後、また空港へ運ばれた。同じ飛行機だった。乗務員も同じだった。
往路もエアインディアだった。私はその時と比べて、自分が変わっていることに気づいた。あの時は、私は乗務員に特別な印象を持たなかった。しかし、今は違う。
(とても美しい。そして深い)
「インドの印象は?」
と今たずねられたら、
「偉大で、深い」
と答えるだろうと思った。
関空に着いてからは、日本人が助けてくれた。
タクシーが無人のわが家に着いた。私はあの「杖」にすがって家にはいり、電話機のそばにころがった。それから友人の職場に電話して、帰りに寄ってほしいと頼んだ。
友人は来た。そして私を見るなり、
「よぉ生きて帰ったなぁ」
と言った。
