2018年度日本印度学仏教学会ちょびっと報告(第五部会)

日本印度学仏教学会第69回大会が9月1日(土)から9月2日(日)にかけて東洋大学白山キャンパスで開催されました。

今年のチベット関係は、第5部会1日目の午後に纏められていました。午後だけは移動せず、全部の発表を聞きました。

日本印度学仏教学会 第69回大会会場

毎度言い訳してますが、学問の進展に取り残された感のある老いた脳にはすべてのポイントが分かる訳でもないのですが、とりあえずすべての研究発表を聞いて勉強してきました。

第5部会の会場になった東洋大学1号館4階1401教室という部屋は、チベット関係部会にはちょっと広すぎたかも。けど教室の割り当てって難しいのですよね。

第5部会の午前では密教関係の発表が纏められていて、望月先生のアティシャの発表なんかはそっちに入ってました。

パクモ・ツェテン「シャーキャ・チョクデンの自立論証派の世俗観」

最初の発表は広島大学大学院のパクモ・ツェテンさんによる「シャーキャ・チョクデンの自立論証派の世俗観」と題する発表。

サキャ派のシャーキャ・チョクデンによる中観理解はゲルク派のそれと少し異なっています。おおよそゲルク派ではジュニャーナガルバは経量中観論者でシャーンタラクシタは瑜伽行中観論者と看做して区分しますが、シャーキャ・チョクデンは、両者の違いは単に教授方法(指導方法)の違いであって、ゲルク派によるそのようなカテゴライズは無意味であると考えたようです。サキャ派の論師にはシャーキャ・チョクデンの他にもコランパという論客もいてこれがシャーキャ・チョクデンと多くの点で違った見方をします。

今回は聞けませんでしたが、サパンより以前のチャパなどの中観派史観からの流れについても知りたいと思いました。

ラモ・ジョマ「ツォンカパの中観思想における滅諦と勝義諦について」

次の発表は大谷大学大学院で先日、博士の学位を取得されたラモ・ジョマさんの「ツォンカパの中観思想における滅諦と勝義諦について」という発表でした。複雑な哲学用語なのに日本語で完璧な質疑応答をする姿にびっくりします。

発表の様子

ツォンカパの中観理解はそれまでの論師の理解とはかなり多くの点で異なっていて革新的なのですが、今回のラモさんの発表では、滅諦や勝義諦、そして勝義諦の否定対象などについて、それまでの論師とツォンカパとの違いを明らかにしようとするものです。

彼以前の見解では勝義諦は所知ではないとされていたのに対してツォンカパは、真実義という対象を見る正理知によって直接認識されるものであって、所知であるとします。けど、勝義諦は、特別な智慧である三昧智と如実智によって得られるが、真実成立(bden grub)ではない、と説明します。

ラモさんは、先日提出された博士論文でも、ツォンカパ以降に発達したゲルク派教義にも影響されず、ツォンカパ以前の議論にも深入りせず、ツォンカパの言葉をツォンカパに寄り添って考察したい、という態度を貫かれましたが、今後はここでツォンカパが言っている「以前の論者」がそれぞれの著書の中でその人の論理でどう言っていたのか、という点を確認しながら「裏を取る」作業も必要になって来ると思います。

いや、そういう意味で言ったんじゃないのに、と言う人もいるんじゃないかと思うのですが。

福田洋一「ツォンカパのラムリム思想の成立過程について」

3番目の発表は大谷大学教授の福田洋一先生による「ツォンカパのラムリム思想の成立過程について」という発表でした。

ツォンカパのラムリム思想は、その師であるレンダワと一旦別れた1390年夏以降にはじまるラマウマパとの遁世修行と、ラマウマパを介しての聖文殊尊との瞑想の中での問答を経て、ラマウマパを介さず直接聖文殊尊と対話出来るようになってから実践修行についての教誡を受けて徐々に醸成されていったと伝えられています。

『菩提道次第大論』のコロフォンによれば、三士の一般的特質を説いている部分をアティシャの『菩提道灯論』から引き、ゴクロデンシェラブからトルンパに伝わった道次第の諸構造を基礎にして著述したことが述べられているそうです。ということはレンダワからはあまり影響を受けていないことになる。

話しを混ぜっ返して悪いのですが、聖文殊尊って普通に考えると、自分の中の純粋な論理性を人格化した存在だろうと考えるのですが、本当に人格を持った姿で眼の前に出て来たんでしょうかねえ?私の中にはそんな聖なる存在は同居していないので、聖文殊尊型AIロボットなんかが開発されるまで長生きするしかない。

西沢史仁「チベット初期中観思想における二諦説」

4番目の発表は東京大学非常勤講師の西沢史仁先生による「チベット初期中観思想における二諦説」(二諦の分類の意味をめぐって)という発表でした。

二番目のラモさんの発表でも確認されていましたが、ツォンカパは勝義諦を正理知の対象として存在すると看做し、それ以前の論師たちと異なっていたとされます。ゲルク派ではこの違いをツォンカパの独自性としますが、西沢さんによればチャパの著作にその見解と同じ論旨の主張が展開されており、結果的にはツォンカパの独創とは言えないようです。

サキャ派の論師たちと対立する論点はこれ以外にも様々存在しますが、その論点の中の幾らかには、サンプ系の意見に反論したサキャ派に再批判したゲルク派という図式が見えるものが少なからずあるようです。

西沢さんが言うようにツォンカパの中観説の中に、自立派の学統を受け継ぐチャパ系の解釈が導入されtいる点はたいへん面白い。

石川美恵「オギェン・ジクメ・チューキワンポのbsGom rim nyung guについて」

5番目の発表は東洋大学非常勤講師の石川美恵先生による「オギェン・ジクメ・チューキワンポのbsGom rim nyung guについて」という発表でした。

オギェン・ジクメ・チューキワンポという名前よりパトルリンポチェという名前のほうが有名ですが、彼は『現観荘厳論』に大・中・小の三種の注釈書を著しているそうです。その中の小が今回の主題bsGom rim nyung gu(ゴムリムニュング)です。

資料として配布された科段を見ると、一部の順序が違うことを除いて他の『現観荘厳論』註と大差はなく、八現観を解説する構成です。喩例などもそれまでの注釈書に散見される例が引かれており、要点が巧みに捉えられた註釈書と言えるようです。

宗派を越えて実践者の立場で布教に専念したパトルリンポチェらしい、真面目な行者の座右の書という感じがしました。

石田勝世「生物系統学の系統推定手法を利用した蔵訳『賢愚経』テキスト校訂の試み」

6番目の発表は九州大学大学院研究生の石田勝世さんによる「生物系統学の系統推定手法を利用した蔵訳『賢愚経』テキスト校訂の試み」という発表でした。

生物系統学で使用される系統推定ツールを利用してカンギュルの諸版諸写本を分析して異読だけによって先ず暫定的に系統図を作り、次に異読を取捨選択しながら目標テキスト(祖本)に近づこうという試みです。

私が感じた2つの疑問です。このツールを使って系統推定をした結果を見るとアイマー先生が推定したものと極めて近い結果なのですが、手持ちの材料の数が一緒なのですから機械に頼らなくても良いように思うのは新しい事について行けない年寄りのひがみでしょうか。次なる疑問は、私には現存する材料では現われない「チモ」と呼ばれる編集前の素材がもっとも重要な異読の出現の切り札だと思うのですが、現状ではコンピュータにはそれは推定出来ないので、そっちのほうを先に解決すべきではないか、という点です。

けど、前にも書きましたが、若い頃私も石田さんと同じアイデアを持ちました。実行するだけの知識を僕が持ち合わせなかっただけです。改めて思うのはアイマー先生の偉大さです。

谷口富士夫「『現観荘厳論』トルボパ註における仏身」

7番目の発表は名古屋女子大学教授の谷口富士夫先生による「『現観荘厳論』トルボパ註における仏身」という発表でした。

『現観荘厳論』法身章を註釈したハリバドラは四身説を展開し、ラトナーカラやアバヤーカラはそれを批判し三身説を説きます。チベットでは多くの論師がハリバドラ註を使い四身説を承認しますが、チョナン派のトルポパは独自の仏身論を展開するのだそうです。

トルポパ註が仏身について語る部分には科段が付されておらず谷口先生は独自に読み取ってその部分の構成を書き出されています。さらに29カ所の引用経典も丹念に調べられ、資料に提示されています。トルポパは仏身の数については一応は四身説を受け入れ自性身と法身が別であること認めているもののそこにあまり拘りはなく「仏身の数の多少を述べるべきではない」と言っているそうです。

谷口先生によると、トルポパは顕教のみならず、変化身や受用身と自性身を同義のように扱い説明する密教の仏身説をも総合して融通無碍な仏身を考えていたのではないか、とのことでした。

楊暁華「チベット語『善逝聖行宝蔵』について」

8番目の発表は陜西師範大学国外蔵学研究中心講師の楊暁華さんによる「チベット語『善逝聖行宝蔵』について」という発表でした。

当該の『善逝聖行宝蔵』は、著者のケルサンチューキギャムツォがチャクローツァーワの勧めで執筆した書物だと伝えられているそうです。同書はモンゴル語訳されてモンゴルでも良く読まれたようです。内容は仏伝を纏めたもので、素材の中心は rgya cher rol pa (Lalitavistara)を直接あるいは「プトン仏教史』を介して取材したようですが、増広や改変を加えて著述されたようだと発表者は述べておられました。

発表原稿がネイティヴチェックされていない日本語文で、かつ発音にも特徴があるので実は良く分かりませんでした。

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日本のチベット学全体の隆盛は明らかで、言語学や歴史学あるいは人類学などの領域で若い勢いのある研究者が国際的にも多く活躍しているのですが、その中の仏教研究部門の研究者は基礎となる部分が「文献学」であることも理由のひとつでしょうが、皆んな表情が堅い。はっきり言ってみんな地味すぎます。

まあ、一昔前の魑魅魍魎が跋扈する状況も危険ですが、昔はワクワク感がもっとあったように記憶してるのですが….。なんかもうちょっと明るくする方法はないかなあ?こんなこと考える僕がいけないのかなあ?

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