今回は、エンドウスミエさんよりお便りをいただきました。ありがとうございます。
銀川は、中国・寧夏回族自治区(回族はイスラム教徒のこと)の中心地で、西安から飛行機で1時間ほど北に飛んだところにあります。
ダヤンウルスはチベット関係サイトなのに、なぜ回族なのかと不審に思われる方もあるでしょう。
チベット文化を語る時、銀川について言及されることは、あまりありません。というか私は聞いたことがありません。風の旅行社が出している「チベットの旅」のパンフレットにも、チベット文化圏を旅する者必携の『旅行人ノート チベット』にも銀川についての記載はありません。
しかし、今から千年ほど前の10世紀後半から1227年にかけて、この寧夏から内蒙古自治区西部、そして敦煌までを、 チベット系のタングート族の興した西夏という王国が支配していたのです。
「西夏を知っている!」という方は、井上靖の『敦煌』を読んだことがあるか、NHKの「シルクロード」を見たことがあるのではないでしょうか。
1900年始め、ロシアの探検家コズロフが砂に埋もれていた西夏王国の遺跡・カラホト(黒水城)を発見し、仏教を信仰し、独自の文字さえ持っていた西夏王国の存在が広く世に知られるようになりました。カラホトで発見された貴重な文物は、ロシアに送られ(現在はエルミタージュ美術館に所蔵)、西夏の主要な文物は全て国外に流出してしまったか、に見えました。
ところが!
近年、歴代の西夏王の陵墓がある銀川の発掘調査が進み、まだまだ新しい発見があるらしいのです。
特に私が興味を持ったのは中国・銀川郊外にある拝寺口双塔から出て来たというチベット人らしき高僧とチャクラサンヴァラが描かれた二枚の仏画で、その様式が、どうもネパールのネワール族の絵師が描く仏画っぽい・・・。16世紀までネワールの絵師はチベットの仏教徒のために仏画を描いていたのですが、もしかしたら西夏で仏画を描いていたネワール族の絵師がいたのかも・・・。
そこで、さらに詳しい情報を求めて、私は銀川にやってきたのでした。
銀川は(見かけは)立派なビルやマンションがならぶ現代的な中都市でした(ちょっと意外)。かつてはタングート族に支配されていた地も、今では漢族と回族がほとんでで、チベット人は見かけません。チベット寺院もありません。
さっそく目的の巻軸を見に、承天寺塔・ 寧夏博物館へ。ここには西夏時代の出土品が集められており拝寺口双塔から発見された二枚の巻軸「上師図(写真左)」と「上楽金剛図(写真右)」もここに展示されています。
拝寺口双塔は、チベット仏教が伝わった西夏の中、後期に建てられたのではないかと考えられています。歴代の王の墓である西夏王陵は、チンギスハーンによって徹底的に破壊されたのですが、さすがに仏教寺院は壊すのがはばかられたのか、二つの塔は破壊を免れ、地震にも耐え、現代まで原型をとどめて立ち続けていました。
1986年に、この拝寺口双塔の改修工事をしていたところ、密封された小部屋が発見され、そこから二枚の巻軸が出て来たのでした。
二つの巻軸とともに元の通貨も数枚発見されていますが、壁面と柱に梵字と西夏文字が書かれており、西夏文字の中に「上師」という文字が入っていた、ということから巻軸は西夏時代のものと考えてもよいと思われます(あまりに煩雑な文字なので西夏滅亡後、西夏文字も滅びてしまった)。
二枚の仏画には、密教系の神々を描いた様式や、赤色の多用、金の色材の使用など、カトマンズのネワールの絵師が描く仏画の特徴が多く見られるのですが、ネワールの仏画の大きな特徴である渦巻く草の模様がありません。エルミタージュにある黒水城で出土した西夏の仏画には草の模様があるのですが・・・。もしかしたら、この巻軸は、さらに古い時代のものなのかも。だとしたら、すごいことなのですが・・・。
もうひとつ西夏で出土した仏画の特徴として、絹に描かれている、ということがあげられます。タンカは最初の工程で布に石灰や胡粉のような白い色を塗って石で研摩するので、普通は丈夫な木綿に描くのですが、わざわざ高価で傷みやすい絹に描いている、というのがシルクロードの要所を支配していた西夏王国らしいところです。
二枚の仏画も絹に描かれているということは、運んで来たのではなく、絵師がこの地で描いたということなのではないかと思われます。
では、やはりネパールから西夏に来た絵師がいたのでしょうか。
銀川とネパール、遠く離れているような気がしますが、銀川から514km南下すると蘭州。蘭州から西か南へ行けば、もうチベットのアムド地方。アムドから青蔵公路をたどればラサ、さらに進んでヒマラヤを越えればカトマンズ。カトマンズからネワールの職人がはるばるここまでやって来た可能性がないとは言えません。
色材の産地や制作年代などについての、さらに詳しい科学的調査が進むのを待つのみです。

さて、次の日はタクシーをチャーターして西夏王陵と拝寺口双塔へ。
西夏王陵は全部で9つあって南北10km、東西4.5kmの範囲に点在しています。それぞれ一つが10万平方米もあるので、全部見るのはちょっと大変(まだ発掘途中のものもある)。というわけで、そのうちの一つの横に博物館や西夏歴史館を建てて公園として整備つつあります。
王陵はかつて瑠璃瓦やさまざまな彫刻、紋様、等で飾られていたということですが、全て破壊されて土台の土饅頭しか残っていません。とはいえ、それだけでも高さ12mほどあるので、当初はどれほど立派だったことか・・・。あまりに破壊されつくしているので復元は難航しているようですが、ぜひ見てみたいものです。

拝寺口双塔は、西夏王陵から干上がった河底のような丸石のごろごろした荒野の中の道をさらに50kmほど北上したところにあります。
西夏王陵を訪れても双塔まで訪れる観光客は少ないそうで、見に来るのは日本人が一番多いということでした(私なら、ただの土饅頭になっている西夏王陵よりも、拝寺口双塔をお勧めするがなあ)。
双塔は山の梺に建てられています。
ちょうど二つの塔の間に見える山の上の方に仏の形をした天然の岩石があり、かつてはそこを中心として多くの寺院や僧院、仏塔が建てられ一大複合施設を形成していたようです。
その規模は西夏最大で、王族達の仏教行事にも使われていただろうと考えられています。
双塔は西塔(写真左)と東塔(写真右)の二塔で、高さは40mほど。中国式建築で、どちらも十三層の八角形。東塔より西塔のほうが装飾に凝っていて、各層の8面に、僧や羅漢、八吉祥などの彩色浮彫が飾られています。
塔を管理している老師によると、西塔が女性で陰の気をあらわし、東塔が男性で陽の気をあらわすとか。
興味深いのが二つの塔に共通する玉飾りをくわえている怪獣のモチーフで、これってチベットのお寺でよく使われていますよねえ。宋の文化や政治制度に習いつつも独自の習慣や文字を作った西夏なので、きっと仏教においても、チベット仏教を取り入れつつも独自の仏教文化を築いていたのでは。
塔の横には昔の寺院の跡が残っており、すりきれた石畳は当時、人々がそこにひざまづいて仏に祈った場所だということです。
かつて、ここには大勢の僧侶の読経の声が響き、参拝者が捧げる線香の煙が絶え間なくただよっていたのでしょう。今では聞こえてくるのは 塔の軒先につるされた風鈴の涼しげな音色だけです。
1999年には、塔の横から15列68座のチベット様式のストゥーパが発掘され、塔周辺の遺跡の調査はまだ始まったばかりです。
拝寺口はまたの名を百寺口というほどなので、その規模は推して知るべし。発掘しても管理する場所も研究する人材も足りないので、とりあえず埋もれたままにしてあるという感じです。
西夏とチベットは政治的には敵対しており、西夏の仏教は中国仏教に依存していた、ともいわれていますが、拝寺口の調査がさらに進めば、西夏とチベットの仏教を中心とした深い文化的繋がりが、明らかになってくることと思われます。
またそれを通してインド、ネパールからの仏教文化の影響がわかれば、シルクロードの多文化国家としての西夏王国の意義も再評価されるのではないでしょうか。
今はまだマイナーですが、チベット仏教文化研究において銀川はなかなかあなどれない場所であります。
